市川崑
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市川 崑(いちかわ こん、1915年11月20日 - 2008年2月13日)は日本の映画監督。三重県宇治山田市(現・伊勢市)出身。
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[編集] 経歴・人物
1915年、三重県宇治山田市に生まれる。幼少時は市川儀一という名前であり、成人してから市川崑に改名している。
東宝京都スタジオでアニメーターをつとめ、1945年に人形劇『娘道成寺』デビュー。東宝東京撮影所から東宝争議のなかで新東宝撮影所に転じ、のちにまた東宝に復帰した。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を読んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。
1955年にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。『ビルマの竪琴』で一躍名監督の仲間入りを果たし、さらに大映に移籍。文芸映画を中心に『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』など名作を毎年のように発表して地位を確立した。とりわけ1960年の『おとうと』は大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで美しく表現、自身初の『キネマ旬報』ベスト1に輝く作品となった。
この時期は日本映画の全盛期であると同時にやがて映画産業の斜陽をもたらすことになるテレビの隆盛が始まる時期でもあった。映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持つ者が多いなか、崑は逆に新メディアの可能性に注目してこの分野に積極的に進出。フィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにはじまり、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマ、さらには生放送ドラマまでを手がけ、テレビ史においても先駆的な役割を果たした。
1972年に監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビジョン)はその斬新さから今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われている。
1965年には総監督として製作した『東京オリンピック』が一大センセーションを起す。崑はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を和田夏十・谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。
しかも冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影した り、望遠鏡のような2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに 絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。
これをオリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判したことから[1]、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった[2]。
1970年代は横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛け、絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒットとなった。さらに『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリを翻案した『幸福』、『四十七人の刺客』、『どら平太』などの娯楽時代劇など、多彩な領域で成果を収める。
90歳を越えた2006年には30年ぶりに金田一耕助シリーズのひとつ『犬神家の一族』をリメイクするなど、晩年に至ってもなおその旺盛な製作意欲は衰えることはなかった。
2008年2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年94(92歳没)。
2008年6月公開予定の映画『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督作品)に1シーンで出演(映画監督役)する姿が最後の活動となった。
[編集] 作風
崑は大作『東京オリンピック』の後に人形劇『トッポ・ジージョのボタン戦争』を手がけたり、おどろおどろしい横溝正史の『獄門島』と『女王蜂』の間にアニメ合成を駆使した映像ファンタジー『火の鳥』を製作するなどその活動の幅は広く、作風は多彩である。脚本はすべて妻であり同志でもあった和田に委せるか、自らが全部または一部を手がけるというこだわりも見せる。1969年には黒澤明、木下恵介、小林正樹と4人で四騎の会を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、のちに自身で監督もしている。
崑は新藤兼人に次ぐ日本映画界の大御所であり、そのキャリアや興行力においては比肩する者のない存在だが、老いてなおその実験精神は衰えない。近年では黒鉄ヒロシのマンガによる紙人形で全編を撮影した『新選組』がファンの度肝を抜いた。また、30年前に自らが撮った『犬神家の一族』をまったく同じ脚本と同じ主演俳優でリメイクしてみたりもしている。
[編集] 影響
崑の独特の映像表現には定評があり、後輩の映画監督に多大な影響を与えている。
- アニメ映画監督の庵野秀明は、自らの作品に市川作品を意識した映像表現を多用している。
- 「岩井美学」とまで呼ばれる映像手法を確立した岩井俊二監督は1976年の『犬神家の一族』を「自分の映画作りの教科書」と呼んでいる。崑を崇拝する岩井は2006年に『市川崑物語』を製作している。
- 北野武は崑の『東京オリンピック』に強い影響を受けたと語っている。
- トリュフォーら外国の監督にも市川の崇拝者は多い。
- いわゆる「市川組」出身の映画監督には、東宝の古沢憲吾・橋本幸治・手塚昌明、日活の舛田利雄・江崎実生、大映の増村保造・田中徳三・池広一夫らがいる。
なお和田誠・森遊机 編の『光と嘘 真実と影 市川崑監督作品を語る』(河出書房新社、2001年)では塚本晋也、井上ひさし、小西康陽、橋本治、椎名誠、宮部みゆきなど各界の市川ファンが賛辞を寄せている。
[編集] 人物
大変なヘビースモーカーとして有名。文化功労者に選出された1994年には『紅白歌合戦』に審査員として出演したが、司会の古舘伊知郎から「場内は禁煙でございますので」と忠告され頭をかいていた。
[編集] 和田夏十
詳細は和田夏十を参照
妻は脚本家の和田夏十。東宝撮影所で知り合い、1948年に結婚した。和田は40年近くにわたって崑の生活を支えるかたわら、生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における崑のパートナーだった。そもそも「和田夏十」(わだなっと)という名は東宝撮影所時代に2人が共同執筆するためのペンネームとして使っていたもので、1951年の『恋人』で「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と崑がこれを妻に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。
[編集] 受賞
[編集] 映画賞
- 1956年 『ビルマの竪琴』で
-
- ヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジョ賞
- アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
- リスボン国際映画祭審査員特別賞
- エジンバラ国際映画祭グランプリ
- 1959年 『野火』で
-
- ロカルノ国際映画祭グランプリ
- バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞
- 1960年 『鍵』で
-
- カンヌ国際映画祭審査員賞
- ゴールデングローブ賞外国語映画賞
- 1961年 『おとうと』で
-
- カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンション
- 1962年 『私は二歳』で
-
- アジア映画祭監督賞
- 1965年 『東京オリンピック』で
-
- カンヌ国際映画祭青少年向映画賞
- UNICRIT賞
- 英国アカデミー賞長編記録映画賞
- 国連平和賞
- モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞
- 1983年 『細雪』で
-
- アジア太平洋映画祭グランプリ
- 同・監督賞
- 1984年 『おはん』で
-
- アジア太平洋映画祭審査員特別賞
- 1994年 『忠臣蔵 四十七人の刺客』で
-
- 東京国際映画祭審査員特別賞
- 2000年 ベルリン国際映画祭特別功労賞
- 2001年 モントリオール国際映画祭功労賞
- 2007年 東京国際映画祭黒澤明賞
[編集] 叙勲
[編集] 監督作品
[編集] 映画
- 『娘道成寺』(1945年、東宝教育映画)
- 『東宝千一夜 大阪編』(1947年、新東宝)
- 『三百六十五夜』(1948年、新東宝)
- 『花ひらく』(1948年、新東宝)
- 『果てしなき情熱』(1949年、新世紀プロ=新東宝)
- 『人間模様』(1949年、新東宝)
- 『銀座三四郎』(1950年、新東宝=青柳プロ)
- 『暁の追跡』(1950年、田中プロ=新東宝)
- 『熱泥地』(1950年、新東宝)
- 『恋人』(1951年、新東宝=昭映プロ)
- 『盗まれた恋』(1951年、新東宝=青柳プロ)
- 『無国籍者』(1951年、昭映プロ=東横映画)
- 『夜来香』(1951年、新東宝=昭映プロ)
- 『ブンガワンソロ』(1951年、新東宝)
- 『結婚行進曲』(1951年、東宝)
- 『足にさわった女』(1952年、東宝)
- 『あの手この手』(1952年、大映京都)
- 『若い人』(1952年、東宝)
- 『ラッキーさん』(1952年、東宝)
- 『青色革命』(1953年、東宝)
- 『愛人』(1953年、東宝)
- 『プーサン』(1953年、東宝)
- 『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』(1953年、東宝)
- 『わたしの凡てを』(1954年、東宝)
- 『女性に関する十二章』(1954年、東宝)
- 『億万長者』(1954年、青年俳優クラブ)
- 『こころ』(1955年、日活)
- 『青春怪談』(1955年、日活)
- 『ビルマの竪琴 第一部』(1956年、日活)
- 『ビルマの竪琴 第二部』(1956年、日活)
- 『日本橋』(1956年、大映東京)
- 『処刑の部屋』(1956年、大映東京)
- 『東北の神武たち』(1957年、東宝)
- 『満員電車』(1957年、大映東京)
- 『穴』(1957年、大映東京)
- 『炎上』(1958年、大映京都)
- 『あなたと私の合言葉 さようなら、今日は』(1959年、大映東京)
- 『野火』(1959年、大映東京)
- 『鍵』(1959年、大映東京)
- 『おとうと』(1960年、大映東京)
- 『女経』(1960年、大映東京)
- 『ぼんち』(1960年、大映京都)
- 『黒い十人の女』(1961年、大映東京)
- 『破戒』(1962年、大映京都)
- 『私は二歳』(1962年、大映東京)
- 『太平洋ひとりぼっち』(1963年、日活・石原プロ)
- 『雪之丞変化』(1963年、大映京都)
- 『ど根性物語 銭の踊り』(1964年、大映東京)
- 『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会)* 総監督
- 『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967年、東宝東和)
- 『第50回全国高校野球選手権大会 青春』(1968年、朝日新聞=朝日テレビニュース)* 総監督
- 『愛ふたたび』(1971年、東宝)
- 『股旅』(1973年、崑プロ=ATG)脚本:市川崑・谷川俊太郎
- 『吾輩は猫である』(1975年、芸苑社)
- 『犬神家の一族』(1976年、角川春樹事務所)
- 『妻と女の間』(1976年、東宝=芸苑社)* 豊田四郎と共同監督
- 『悪魔の手毬唄』(1977年、東宝)
- 『獄門島』(1977年、東宝)
- 『火の鳥』(1978年、火の鳥プロ=東宝)
- 『女王蜂』(1978年、東宝)
- 『病院坂の首縊りの家』(1979年、東宝)
- 『銀河鉄道999』(1979年、東映)* 監修
- 『古都』(1980年、東宝=ホリ企画)
- 『幸福』(1981年、フォーライフ=東宝)
- 『細雪』(1983年、東宝)
- 『おはん』(1984年、東宝)
- 『ビルマの竪琴』(1985年、フジテレビ=博報堂=キネマ東京)
- 『鹿鳴館』(1986年、MARUGEN-FILM)
- 『竹取物語』(1987年、東宝=フジテレビ)
- 『映画女優』(1987年、東宝)
- 『つる 鶴』(1988年、東宝)
- 『天河伝説殺人事件』(1991年、東映=『天河伝説殺人事件』製作委員会)
- 『帰ってきた木枯らし紋次郎』(1993年、フジテレビ=C.A.L)
- 『忠臣蔵 四十七人の刺客』(1994年、東宝)
- 『八つ墓村』(1996年、東宝)
- 『どら平太』(2000年、『どら平太』製作委員会=日活)
- 『新撰組』(2000年、フジテレビ=メディアポックス)
- 『かあちゃん』(2001年、映像京都=日活=イマジカ=シナノ企画)
- 『犬神家の一族』(2006年、角川映画)
- 『ユメ十夜・第二夜』(2007年、バイオタイド=日活)
[編集] 主なテレビ作品
[編集] 注釈
- ^ 後に崑は『朝日新聞』 とのインタビューで「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていない のが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」と当時を振り返っている(1985年8月27日付朝刊)。
- ^ 『東京オリンピック』はその芸術性が高く評価されて、同年度のカンヌ国際映画祭でドキュメンタリー作品としては異例の国際批評家賞を受賞している。また同作は映画館以外にも日本各地の学校や公民館などで上映会が開かれたことから、その観客動員数では事実上日本映画史上最多であるといわれている。
[編集] 関連項目
映画監督の市川崑さん死去
2008年02月13日23時16分
「東京オリンピック」のメガホンをとり、「ビルマの竪琴」「細雪」などの文芸ものでは他の追随を許さなかった文化功労者の映画監督市川崑(いちかわ・こ ん)さんが13日午前1時55分、肺炎で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男建美(たつみ)さん。
市川崑さん |
86年、吉永小百合さん(中央)との撮影現場 |
三重県生まれ。伊丹万作監督の「国士無双」を見て映画に関心を持ち、東宝京都撮影所の前身、J・Oスタジオに入った。48年、新東宝の「花ひらく」で監督デビューした。
51年、東宝に移ったころから都会感覚のさえを見せ始め、「結婚行進曲」「足にさわった女」「プーサン」と矢継ぎ早に話題作を発表。以降は、「こころ」 「ビルマの竪琴」「炎上」「鍵」「野火」「おとうと」「破戒」など文芸作品を、独自の解釈をまじえつつ安定した作風で次々と手掛けて「鬼才」といわれるよ うになった。「鍵」はカンヌ映画祭の審査員特別賞、「ビルマの竪琴」はベネチア映画祭のサン・ジョルジョ賞を受賞。
「東京オリンピック」では、ドキュメンタリーのワクにとどまらない劇的効果を狙った映像で「記録か芸術か」の論議を巻き起こした。ま た、テレビでも「木枯し紋次郎」で茶の間のファンを沸かせた。76年からは横溝正史シリーズの「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」などを監督し、 娯楽ものに新境地を開いた。
「細雪」や「おはん」「鹿鳴館」のほか、「ビルマの竪琴」では自作の再映画化に挑戦。「四十七人の刺客」で、95年の日本アカデミー賞の優秀作品賞と監督賞を受賞。94年、文化功労者に選ばれた。
03年には小津安二郎監督の「晩春」をテレビでリメーク、06年には自作の「犬神家の一族」をほぼ同じ脚本でリメークするなど、製作意欲は最後まで衰えなかった。
1月24日に息苦しさを訴え、都内の病院に入院していた。昨年8月、三谷幸喜監督の映画「ザ・マジックアワー」(今年6月公開)に映画監督役で出演したのが最後の活動となった。
Kon Ichikawa
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Kon Ichikawa (市川 崑 Ichikawa Kon?, November 20, 1915 – February 13, 2008) was a prominent Japanese film director.
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[edit] Early career
In the 1930s Ichikawa attended a technical school in Osaka. Upon graduation, in 1933, he found a job with a local rental film studio, J.O. Studio, in their animation department. Eventually he was moved to the feature film department as an assistant director when the company became a complete production company, working under such luminaries as Yutake Abe and Nobuo Aoyagi.
In the early 1940s J.O. Studios merged P.C.L. and Toho Film Distribution, forming Toho Film Company. Ichikawa moved to Tokyo. It was at Toho that he met Natto Wada. Wada was a translator for Toho. They agreed to marry sometime after Ichikawa completed his first directorial effort. They were both the products of previous failed marriages.
His first film, in 1946, was a puppet play, A Girl at Dojo Temple (Musume Dojoji), which was confiscated by the interim U.S. Occupation authorities under the pretense that it was too traditional. Thought lost for many years, it is now archived at the Cinémathèque Française.
[edit] Natto Wada
Her original name was Yumiko Mogi. Natto was born September 13, 1920 in Himeji, Hyōgo Prefecture, Japan. She graduated with a degree in English Literature from Tokyo Women's Christian University. She married Kon Ichikawa on April 10, 1948, and died on February 18, 1983 of breast cancer[1].
[edit] 1950–1965
It was after Ichikawa's marriage to Wada that the two began collaborating, first on Design of a Human Being (Ningen moyo) and Endless Passion (Hateshinaki jonetsu) in 1949. The period 1950–1965 is often referred to as Ichikawa's Natto Wada period. It's the period that contains the majority of his most highly respected works.
The majority of his most highly regarded films were screenwritten by his wife. This partnership began in 1949 with Design of a Human Being (Ningen moyo) and continued through to 1965 with Tokyo Olympiad. She wrote 34 screenplays during that period, most of which were adaptations. Wada had a talent for adapting other sources to the screen and that's where most of their partnership concentrated.
He gained western recognition during the 1950s and 1960s with a number of bleak films—two antiwar films with The Burmese Harp and Fires on the Plain, Alone on the Pacific (Taiheiyo hitori-botchi) and the technically formidable period-piece An Actor's Revenge (Yukinojo henge) about a kabuki actor.
Of his many literary adaptations, works including Jun'ichirō Tanizaki's The Key (Kagi), Natsume Sōseki's The Heart (Kokoro) and I Am a Cat (Wagahai wa neko de aru), about a mouse turned into a cat viewing the world from its unique perspective, and Yukio Mishima's Conflagration (Enjo), in which a priest burns down his temple to save it from spiritual pollution, were brought to the screen.
[edit] After 1965
After Tokyo Olympiad Wada retired from screenwriting and it marked a significant change in Ichikawa's films from that point onward. Concerning her retirement, he spoke, "She doesn't like the new film grammar, the method of presentation of the material; she says there's no heart in it anymore, that people no longer take human love seriously."[2]
Of the change Wada's departure marked, it is hard to extricate her from his work. The two worked very closely and shared many ideals. Whereas Ichikawa can be said to be responsible for much of the black wit in his films (that trend certainly continued beyond Wada's departure), she also had a sardonic side, as evidenced in many of her essays. Whereas people will attribute much of the humanity of his earlier films to Wada, humanity is still a major theme in the post-Wada films. About the only thing critics can agree on is that post-Wada Ichikawa films had a definite lesser quality to them (with a few notable exceptions).
Ichikawa died at age 92 in Ujiyamada, Mie Prefecture.[3][4]
[edit] Legacy
Ichikawa's films are marked with a certain darkness and bleakness, punctuated with sparks of humanity.
It can be said that his main trait is technical expertise, irony, detachment and a drive for realism married with a complete spectrum of genres. Some critics class him with Akira Kurosawa, Kenji Mizoguchi and Yasujiro Ozu as one of the masters of Japanese cinema.
[edit] Filmography
- A Girl at Dojo Temple (1946)
- The Lovers (1951)
- Mr. Pu (1953)
- The Burmese Harp (1956)
- Punishment Room (1956)
- Bridge of Japan (1956)
- The Men of Tohoku (1957)
- Enjo (1958)
- Odd Obsession (1959)
- Fires on the Plain (1959)
- A Woman's Testament (1960)
- Ten Dark Women (1961)
- The Sin (1962)
- Being Two Isn't Easy (1962)
- An Actor's Revenge (1963)
- Alone in the Pacific (1963)
- Money Talks (1963)
- Tokyo Olympiad (documentary) (1965)
- The Tale of Genji (1966)
- The Wanderers (1973)
- I Am a Cat (1975)
- The Inugamis (1976)
- Rhyme of Vengeance (1977)
- The Devil's Island (1978)
- The Makioka Sisters (1983)
- The Burmese Harp (remake) (1985)
- Princess from the Moon (1987)
- 47 Ronin (1994)
- The 8-Tomb Village (1996)
- Shinsengumi (2000)
- Dora-heita (2000)
- Kah-chan(2001)
- Yume jûya (2006)]
- Inugamike no ichizoku (2006)]
[edit] References
- ^ James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001, page 35.
- ^ James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001, page 40.
- ^ Obituary
- ^ "Japanese film director Kon Ichikawa dead at 92", Mainichi Shimbun, February 13, 2008. Retrieved on 2008-02-13.
- James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001 (ISBN 0-9682969-3-9).
[edit] External links
- Kon Ichikawa at the Internet Movie Database
- Senses of Cinema: Great Directors Critical Database
- Strictly Film School: Kon Ichikawa
- (Japanese) Kon Ichikawa at the Japanese Movie Database
日本知名導演市川昆因肺炎病逝 享年92歲(組圖)
http://chinanews.sina.com 2008年02月13日 17:48 新浪娛樂
市川昆在片場(資料圖片)
新浪娛樂訊 日本知名導演市川昆因肺炎于本周三(2月13日)1時55分在日本東京醫院病逝,享年92歲。
市川昆與黑澤明、木下惠介、小林正樹並稱日本影壇四騎士,他于1915年11月20日出生在三重縣伊勢,幼時喜愛繪畫藝術。最先在東寶卡通棚工作,後來 作為助理導演,默默耕耘很多年。到了新東寶後任導演,1953年第一部執導的《小熊維尼太陽》上映。後來又先後到過日活,大映。1956年拍攝的《緬甸的 豎琴》使他一躍成為著名的導演。1958年和1959年的《炎上》、《野火》使市川昆躋身到電影導演大師的行列。1965年拍攝紀錄片《東京奧運會》。 70年代中親自完成了橫溝正史的《金田一耕助》系列,以絢爛的畫面,緊湊的劇情得到了熱烈的歡迎。市川昆的作品一大部分都來自對文學作品的改編。《鍵》, 《我是貓》,《細雪》皆是如此。市川昆電影劇本的改編都是由他的夫人和田夏十完成的,二人在東寶攝影所相識,1948年結婚。和田夏十是個劇作家,既是市 川昆生活中的伴侶,也是其工作上的好搭檔。
市川昆獨特的影像表現力對日後的電影導演也都產生了很大的影響,如庵野秀明,塚本晉也、小西 康陽等等。2000年,86歲高齡的市川昆把往昔四騎士黑澤明、木下惠介、小林正樹和自己合寫的劇本《放蕩的平太》搬上了銀幕。這是市川昆導演的第74部 電影,根據作家山本周五郎的原作《街道巡查日記》改編的古裝劇。影片的主人公多拉平太由役所廣司扮演。市川導演的最後一部作品是2006年的《犬神家 族》。
市川昆主要電影作品:
《娘道成寺》(1946年)
《東寶一千零一夜 大阪篇》(1947年)
《三百六十五夜》(1948年)
《花開》(1948年)
《無止境的熱情》(1949年)
《人類的樣子》(1949年)
《銀座三四郎》(1950年)
《黎明的追捕》(1950年)
《熱泥地》(1950年)
《戀人》(1951年)
《被盜的戀愛》(1951年)
《無國籍者》(1951年)
《夜來香》(1951年)
《索羅河》(1951年)
《結婚進行曲》(1951年)
《觸到腳的女人》(1952年)
《那只手這只手》(1952年)
《年輕人》(1952年)
《幸運先生》(1952年)
《青色革命》(1953年)
《愛人》(1953年)
《胡塗先生》(1953年)
《青春的錢形平次》(1953年)
《把我的一切》(1954年)
《關于女性的十二章》(1954年)
《億萬富翁》(1954年)
《心》(1955年)
《青春怪談》(1955年)
《緬甸的豎琴 第一部》(1956年)
《緬甸的豎琴 第二部》(1956年)
《日本橋》(1956年)
《處刑的房間》(1956年)
《東北的神武們》(1957年)
《滿員電車》(1957年)
《洞》(1957年)
《燃燒》(1958年)
《你和我的暗號 再見了,今天》(1959年)
《野火》(1959年)
《鑰匙》(1959年)
《弟弟》(1960年)
《女經》(1960年,吉村公三郎、市川昆、增村保造合導)
《少爺》(1960年)
《十個黑女人》(1961年)
《破戒》(1962年)
《我兩歲》(1962年)
《獨渡太平洋》(1963年)
《雪之丞變化》(1963年)
《毅力的故事 金錢之舞》(1964年)
《東京奧運會》(1965年,東京奧林匹克映畫協會,總導演)
《源氏物語》(1966年,電視劇,伊丹十三出演)
《托波吉吉的按鈕之戰》(1967年)
《第50屆全國高中棒球選手權大賽 青春》(1968年,朝日新聞‧朝日電視新聞,總導演)
《再愛一次》(1971年)
《慕尼黑運動會》(1973年,與其他七位導演共同各執導一部分)
《流浪》(1973年)
《我是貓》(1975年)
《犬神家族》(1976年)
《妻子與女人之間》(1976年,與豐田四郎合導)
《惡魔的數數歌》(1977年)
《獄門島》(1977年)
《火之鳥》(1978年)
《女王蜂》(1978年)
《醫院坡的上吊之家》(1979年)
《銀河鐵道999》(1979年,動畫劇場版,監修)
《古都》(1980年)
《幸福》(1981年)
《細雪》(1983年)
《阿藩》(1984年)
《緬甸的豎琴》(1985年,重拍片)
《鹿鳴館》(1986年)
《竹取物語》(1987年)
《電影女演員》(1987年)
《鶴》(1987年)
《天河傳說殺人事件》(1991年)
《歸來的寒風紋次郎》(1993年)
《四十七個刺客》(1994年)
《八墓村》(1996年)
《放蕩的平太》(2000年)
《新撰組》(2000年)
《母親》(2001年)
《夢十夜》(2006年)
《犬神家族》(2006年,重拍片)
市川昆獲獎情況:
1956年 《緬甸的豎琴》
‧威尼斯國際電影節San Giorgio大獎
‧奧斯卡金像獎外語電影獎提名
‧里斯本國際電影節審查員特別獎
‧愛丁堡國際電影節最高獎
1959年 《野火》
‧瑞士Locarno國際電影節最高獎
‧溫哥華國際電影節加拿大電影協會獎
1960年 《鍵》
‧戛納國際電影節審查員獎
‧金手套獎外語電影獎
1961年 《弟弟》
‧戛納國際電影節法國電影高等技術委員會獎特別mention
1962年 《我兩歲》
‧亞洲電影節監督獎
1965年 《東京奧運會》
‧戛納國際電影節青年電影獎
‧UNICRIT獎
‧英國奧斯卡金像獎長篇記錄影片獎
‧聯合國和平獎
‧莫斯科國際電影節體育聯盟獎
1983年 《細雪》
‧亞洲太平洋電影節最高獎
‧同‧監督賞獎
1984年 《阿藩》
‧亞洲太平洋電影節審查員特別獎
1994年 《忠臣□ 四十七人の刺客》
‧東京國際電影節審查員特別獎
2000年 柏林國際電影節特別功勞獎
2001年 蒙特利爾國際電影節功勞獎
2007年 東京國際電影節黑澤明獎
延伸閱讀:
市川昆:何謂演出家
市川昆:向不可能電影化的題材挑戰
市川昆:描寫拼命生存的人之樂趣的《億萬富翁》
市川昆:窺視小小個人心中的主題
市川昆:戰爭中的人──《野火》
市川昆:富有風俗情調的電影──《少爺》
市川昆:孤獨中的充實感──《東京奧林匹克》
市川崑
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日語寫法 | |
日語原文 | 市川 崑 |
假名 | いちかわ こん |
罗马字 | Ichikawa Kon |
市川崑(いちかわ こん,1915年11月20日-2008年2月13日)電影導演,與黑澤明、木下惠介、小林正樹並稱日本影壇四騎士;以推理探偵小說家橫溝正史的『金田一耕助』系列為劇本拍成電影珣爛画面,緊凑的劇情大受歡迎,也是日本國粹派重要導演。
2006年,岩井俊二拍摄了以市川崑一生经历为主题的纪录片《市川崑物语》。
[编辑] 生平
- 最先在東寶卡通棚工作,後來作為助理導演多年
- 到了新東寶後升任導演
- 作品一大部分都來自文學作品的改编。鍵,我是一隻貓,細雪大抵如此。而电影剧本的改编都是由他的夫人和田夏十完成
- 獨特的影像呈現魅力,對日後的導演發生了很大的影响,像:庵野秀明,塚本晉也、小西康陽
- 《小熊维尼太陽》第一部導演電影上映,1953年;又到過日活,大映電影公司
- 《緬甸的竪琴》:成名之作,大獲國際好評,講述一位日軍在緬甸逃兵出世為僧彈著豎琴沿途超度戰場屍骨,1956年。
[编辑] 作品
- 《小熊维尼太陽》,1953年
- 《緬甸的竪琴》,1956年。
- 《炎上》,演員:市川雷蔵、仲代達矢、中村雁治郎、新珠三千代、中村玉緒,1958年
- 《野火》,1959年擠身到電影導演大師
- 《雪之丞變化》演員:林長二郎、長穀川一夫、山本富士子 、若尾文子,1963年
- 1964年東京奧林匹克世運會記錄片導演,晉升為國際大師
- 《我是一隻貓》
- 《金田一耕助》,70年代中系列電影數部 演員:豐川悅司
- 《竹取物語》演員:澤口靖子、中井貴一、三船敏郎、若尾文子、春風亭小朝,1987年版
- 《細雪》演员:吉永小百合,影評讚譽為[表現日本傳統風貌,拍攝膠卷色彩極致繽紛豔麗,女性電影名作],1983年
- 《鍵》
- 《四十七人刺客》演员:宮澤理惠,1994年(第7屆)東京國際影展評審團大獎
- 《放蕩的平太》演員:役所廣司 市川崑導演的第74部电影,根據作家山本周五郎的原作《街道巡查日記》改编的古裝劇,2000年
- 《犬神家の一族》演員:松島菜菜子、石坂浩二、松坂慶子、深田恭子 ,得東京影展黑澤明獎獎金10萬美金和最大獎項櫻花獎,2007年
[编辑] 外部連結
- (日文) Kon Ichikawa at the Japanese Movie Database
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