2008年2月22日 星期五

Masaru Ibuka

井深大先生,1933年畢業於早稻田大學科學工程學院,早在還是學生的時候他就以「動態霓虹燈」獲得巴黎萬國博覽會優秀發明獎。1945年日本第二次世界大戰後,首都東京一片廢墟,井深大日本橋地區的百貨公司倉庫成立「東京通信研究所」。盛田昭夫在井深大邀請下加入共同經營,公司並獲得盛田酒業19萬日圓資金,於1946年正式成立「東京通信工業株式會社」,出任公司高級總經理和代理董事。並遷址到現在的品川區御殿山

日本第一臺磁帶答錄機電晶體收音機、等代表Sony的眾多商品大都源於井深大先生的夢想,為今日Sony的成功奠定了堅實的基礎。1967年,索尼發表了由井深大親自加入開發「特麗霓虹」(Trinitron)映射管技術,這項技術使的索尼電視在全球熱賣,盛田昭夫自日本開發銀行借得巨額開發債務也在3年還清。特麗霓虹也是井深大引以為傲的技術。

作為一名重視創造力、獨特性的技術人員和企業家,井深大在公司「成立意旨書」當中期望此公司工程師是為理想而工作而不是為營利而工作,期待成為「工 程師的樂園」。井深先生把他強烈的好奇心、優秀技術人員特有的卓越洞察力和執著的熱情奉獻給了電子產業的發展。不拘泥於現有的技術、獨立研究開發出前所未 有、"觸動消費者心弦"的產品、創造全新的市場與需求正是Sony公司在50年間取得巨大發展的動力原因。

而專於技術研發的井深大與他的夥伴擅長公關的盛田昭夫的猶如兄弟般的友誼也被譽為美談。Sony誕生60年來,依舊秉承著井深--盛田式的經營理念,即通過獨特的產品研發,為顧客創造新的娛樂生活方式。

[編輯] 熱衷教育的貢獻

井深大的女兒年幼時連續高燒致殘,因此井深大除了在電子事業成就外,對於教育也是相當熱衷,他重視中小學的理科教育,在他的宣導下,1959年新力 公司在日本全國28所小學首次設立科學教育課程,井深先生於1969年設立了幼兒開發協會,積極地獻身於幼稚教育的研究,他在幼稚教育方面提出的許多主 張,被稱為「井深理論」。為表彰他在推動國民教育方面的突出貢獻,1972年公司成立了專門負責開展教育方面公益活動的索尼教育振興基金。

[編輯] 傑出貢獻的榮譽

1992年井深先生成為日本第一位獲得文部省(教育部)授予文化勳章的企業家。井深先生身為一名研究者、技術人員,以他特有的非凡見識、敏銳的洞察 力和卓越的獨創性,為眾多電子設備的研究開發及商品化做出了很大貢獻。他是將尖端電子技術廣泛運用到民用產品的先驅者。不僅如此,他為日本電子產業的發展 開拓了新的方向--從最初模仿改良已有的技術到開創全新的技術業務領域。由於他的這些傑出貢獻,他先後獲得日本政府頒發的藍帶綬章(1960年)、一等瑞寶綬章(1978年)、一等旭日大綬章(1986年)和正三位勳一等旭日桐花大綬章(1997年追綬,為日本國民可以獲得的最高榮譽)。



Masaru Ibuka (井深大 Ibuka Masaru, April 11, 1908 in Nikkō City, JapanDecember 19, 1997 in Tokyo) was a Japanese electronics industrialist. He co-founded what is now Sony.

He graduated in 1933 from Waseda University where he was nicknamed "genius inventor." After graduating, he went to work at Photo-Chemical Laboratory, a company which processed movie film. In 1945, he left the company and founded a radio repair shop in Tokyo.

In 1946 Ibuka and Akio Morita co-founded Sony Corporation, originally named Tokyo Telecommunications Engineering Corporation (prior to 1958). Ibuka was instrumental in securing the licensing of transistor technology to Sony from Bell Labs in the 1950s, thus making Sony one of the first companies to apply transistor technology to non-military uses. Ibuka served as president of Sony from 1950 to 1971, and then served as chairman of Sony between 1971 and 1976. Ibuka left Sony in 1976, but maintained close ties as an advisor until his death in 1997 of a heart failure.

Ibuka also authored the book Kindergarten is Too Late (1971), in which he claims that the most significant human learning occurs from ages 9 months to 3 years and suggests ways and means to take advantage of this.

[edit] Awards and honors

1995


略歴

  • 栃木県日光市に生まれる。
  • 神戸一中(現 兵庫県立神戸高等学校)卒。
  • 早稲田大学理工学部卒。
  • 学生時代の「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
  • 1946年 資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後に文相)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が 常務(営業担当)、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。以来、新しい独自技術の開発にチャレンジし、一般消費者の生活を豊かに便利にする新 商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品をつくりだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的 な大企業に成長していく。
  • 1950年 テープレコーダーを発売。東京通信工業社長に就任。
  • 1955年 トランジスタラジオを発売。
  • 1958年 それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した。
  • 1960年 トランジスタテレビを発売
  • 1965年 家庭用ビデオ・テープレコーダーを発売。
  • 1971年 ソニー会長に就任。
  • 1972年 国鉄理事、発明協会会長に就任。
  • 1976年 ソニー名誉会長に就任。
  • 1979年 日本オーディオ協会会長に就任。
  • 1987年 鉄道総合技術研究所会長に就任。
  • 1990年(平成2)ソニーファウンダー(創業者)・名誉会長に就任。

[編集] 特筆すべきこと

  • トランジスタ - アメリカで開発されたトランジスタを実用化、生産することにより前述のトランジスタラジオを世に送り、現在の電子立国日本の基礎を築く。
  • トリニトロンテレビ - 当初はクロマトロン方式にチャレンジしたソニーだったが、5年間の努力を続けても製品としての完成はほど遠かった。だが、その結果、全く新しい方式のブラウン管であるトリニトロンの開発に成功。色選別機構のアパチャーグリル、1ガン3ビームの電子銃、縦方向にゆがみのないシリンドリカルスクリーン・スクェアコーナーなど、独自技術により高性能を実現。他者は全て他方式であるシャドーマスク方式のブラウン管を採用していた中で、技術のソニーを見せつける製品となった。その後、シャドーマスク方式も進化を続け一部技術的に似通ってきた部分もあったが、元々の素性の良さと先行性から、テレビのブラウン管時代における高付加価値製品の位置を占め続けた。
  • ベータマックス - 家庭用ビデオテープレコーダーでは、自社開発によるベータマックスを推進。別方式であるVHSに結果として市場で完敗の結果となり、ソニーもVHSを一般市場にむけ生産する判断を行った。だが、ベータマックスやそれ以前からのビデオテープレコーダー開発により取得していた関連特許はVHSにも多く使用されている。また、放送用機材を初めとする業務用途では、性能を初めとする理由により現在でもベータマックスの進化系フォーマットが使用されつづけている。
  • 晩年には、従来広く認められている科学体系とは別角度からの新パラダイム模索のためにソニー社内にエスパー研究所を設立。主に「気」と呼ばれる存在についての研究を行った。これをオカルト的な疑似科学へ の傾倒と見るむきもあるが、完全な間違い。同所で行われた研究内容や手法は未解明の現象に対してであるが故に客観性を強く意識した厳しいものであった。同 研究所の設立は、当初はエレクトロニクスから始まり、後の発展においては音楽を初め、外食産業や雑貨輸入まで扱う幅広く多角的な存在にソニーを育てた、創 業者井深の、アグレッシブなチャレンジスピリットと、心や知、文化の根源を見つめるマインドの現れであり、極めてソニー創業者的であるといえる(井深逝去 後、同研究所は解散)。
  • 逝去直前には、身体の自由は利かなくなっており車いすでの移動を余儀なくされた。だが、当時の側近の言に因れば最後の最後まで頭ははっきりしてい たという。また、「今、なにがやりたいですか?」の問いには「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」との返答をしたという。
  • 共にソニー創業者である盛田昭夫らは、井深が海外出張などの知見を広げる旅程から戻ると「どうですか?10年後を見てきましたか?」と彼に陽気に聞いたという。
  • 井深の葬儀の際、江崎玲於奈は弔辞で以下内容を述べた。「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考え、見ることで、現在を、明 日を知るひとだった」。これは、井深をにまつわる逸話にも多くある内容。一例として、1980年代前半ごろのエピソードがある。井深が当時の新素材につい てソニー社内の担当責任者にその可能性について意見を聞いた際、その返答は満足のゆくものではなかった。担当者は、現在出来ること、近く出来ることと可能 性を話したが、井深は以下の内容を言ったという。「なぜ、そういう考え方をするのか。そんな数年後ではない。1990年や、2000年でもなく、2010 年、2020年にはどうなっているしどうなるべきだから、という考えかたをしないといけない」。

[編集] 教育活動

教育活動に熱心にとりくみ、1969年(昭和44)に幼児開発協会、1972年にソニー教育振興財団を設立し理事長に就任。また、1985年ボーイスカウト日本連盟理事長にも就任している。教育の持論は「この人の能力はこれだけだと決め付けていたらその人の能力は引き出せません。」だった。

[編集] 主な著作書籍

  • 幼稚園では遅すぎる
  • 0歳からの母親作戦
  • あと半分の教育
  • わが友本田宗一郎

[編集] 栄典

[編集] 関連項目

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