2010年3月11日13時41分
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シャープ元社長で「中興の祖」と呼ばれた佐伯旭(さえき・あきら)さんが、2月1日に慢性腎不全で死去していたことがわかった。92歳だった。葬儀は近親者のみで行った。社葬やお別れの会は故人の希望で行わない。連絡先はシャープ広報室(06・6625・3006)。
1935年に早川金属工業研究所(現シャープ)に入社。創業者の故・早川徳次氏の後を継いで70年に2代目社長に就任。86年に会長になるまで約16年 間務めた。相談役を経て98年からは最高顧問。液晶事業への進出や半導体事業の強化など、関西の一家電メーカーだったシャープを世界的な総合電機メーカー に育てあげた。町田勝彦現会長は娘婿。
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佐伯旭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐伯 旭(さえき あきら、1917年3月8日 - 2010年2月1日 )は実業家。シャープ二代目社長、中興の祖。広島県出身。
来歴 [編集]
1931年早川金属工業研究所(シャープ)入社。1933年大阪経理専卒業。1947年早川電機工業取締役、常務を経て1959年、42歳の若さで専務取締役に就任。創業者・早川徳次に経営を任され実質的社長となり、1970年の正式社長就任を挟んで以降27年間の長きに渡り陣頭指揮を執り一介の町工場、アッセンブリーメーカー(組み立て工場)に過ぎなかったシャープを総合エレクトロニクスメーカーに成長させた。
専務取締役時代に若手技術者らから直訴され回路研究室、半導体研究室を発足させる。これらの研究のうち極超短波研究は国産初の電子レンジ発売(1961年)を、回路や半導体研究は、シリコン太陽電池の量産(1963年)や、世界初のトランジスタ式電卓開発(1964年)、世界初の液晶実用化、CMOS型電卓開発(1973年)などを生み出した。しかし当時のシャープは自前の半導体を待っておらず、電卓に使うICは他社から買っていた。このため1970年の大阪万博不参加を打ち出し「シャープ100年の計のため千里から天理へ向かう」と万博へ出展する資金を天理の半導体工場建設にあてた。これは「千里から天理へ」決断として産業界の伝説となっている。これを機に創業者・早川が代表権のない会長職に退き佐伯は二代目社長に就任、社名を「シャープ」に変更し、総合エレクトロニクスメーカーとしての第2の創業を切る。
創業者・早川以上の企業家精神を発揮、この後半導体を核とした技術開発力、継続的に差別化商品を生み出していく商品開発力の構築、家電流通構造の転換に対応した新しい販売戦略、財務体制の立て直し、海外での生産など、積極的な経営戦略、選択は成功し電卓の他、ラジカセ、ビデオ、複写機などのOA機器が国際市場で次々ヒットし海外事業も一気に拡大した。これらをもたらした組織、人材の育成も大きな業績。"技術のシャープ"を作り上げたともいわれた佐々木正、"ニューライフ商品戦略"を確立した関正樹、家電事業を統括した辻晴雄、"電卓博士"と呼ばれ強烈な電卓戦争勝ち抜きの原動力となりOA部門を育て上げた浅田篤ら。昭和50年代(1975年~1985年)の年平均伸長率は売上高18.2%、経常利益37.2%、10年連続増収増益、10年間で売上高約5倍、経常利益18倍という驚異的成長でシャープを関西の一家電メーカーから、世界のシャープへ、家電から総合エレクトロニクスメーカーへ変身させた。1987年、年商1兆円超えを花道に1986年、辻晴雄にバトンタッチし会長に退いた。1987年相談役、1998年から最高顧問を務めた。
1998年から2007年3月まで第4代社長を務めた町田勝彦は女婿。
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