「無言館」館主が語る野見山暁治さん、戦死した仲間の分も生きて…
「荒々しく変化した戦後を、絵という一本の道で歩まれて、亡くなった仲間の分まで十分生きられた」
戦後の美術界を先導し、戦死した画学生の作品に光を当てた文化勲章受章者の画家・野見山暁治さんが22日、102歳で亡くなった。
戦没画学生の遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)を、野見山さんとともに設立した同館館主で作家の窪島誠一郎さんが野見山さんへの思いを語った。
野見山 曉治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 - 2023年〈令和5年〉6月22日[1][2] )は、日本の洋画家。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。
本名は「野見山曉治」であり、文化勲章受章時の名簿でもそのように記載されているが[3]、名の「曉」は旧字体のため、新字体で野見山 暁治(のみやま ぎょうじ)とも表記される。
来歴[編集]
福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる[4][5]。東京美術学校(現東京芸術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化[6]。帰国後は東京芸術大学で教え、美術学部助教授、教授などを歴任し、同大名誉教授となる。
2023年6月22日、心不全のため死去[1][2]。102歳没。
年譜[編集]
- 1920年、福岡県穂波村にて出生。父親の野見山佐一は海老津鉱業[9]、昭和炭鉱社長[10]。
- 1938年、嘉穂中学校(現嘉穂高等学校)卒業。肺浸潤を患う[11]。
- 1943年、東京美術学校洋画科卒業、直ちに応召、満州で発病し入院、その後帰国し入院[12]
- 1945年、終戦まもなく退院し、傷痍軍人制度廃止に伴う一時金を得る[12]
- 1946年、第2回西部美術展覧会で福岡県知事賞
- 1948年、妹の同級生だった内藤陽子と結婚
- 1952年、滞仏
- 1956年、サロン・ドートンヌ会員。妻・陽子29歳で夭折
- 1957年、ライ・レ・ローズのアトリエを彫刻家・高田博厚から譲り受ける[13][14]
- 1958年、第2回安井賞受賞
- 1964年、帰国
- 1968年、東京芸術大学助教授
- 1972年、同大学教授就任
- 1978年、『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞
- 1981年、芸大辞職
- 1992年、第42回芸術選奨文部大臣賞
- 1994年、福岡県文化賞
- 1996年、毎日芸術賞受賞
- 2000年、文化功労者に選ばれる
- 2014年、文化勲章受章[15]
- 2017年、練馬区名誉区民に選定される[16]
- 2018年、高田博厚展2018記念事業で堀江敏幸と対談[17][18]
- 2020年12月17日、満100歳[19]。2021年現在も作画を続けていた[20]。
- 2023年4月15日、パブリックアート「明日の空」落成式(飯塚市総合体育館)
- 2023年6月22日、死去[1][2]。
画業以外ではKAITA EPITAPH 残照館(旧・信濃デッサン館)の館主窪島誠一郎と協力し、戦没画学生(とくに母校・東京美術学校から召集された者達)の遺作の収集・保存に奔走、それが「無言館」設立(1997年)へ直結した実績をもつ。
関連動画[編集]
- 野見山暁治財団
著書[編集]
- 愛と死はパリの果てに(1961年、講談社)
- 野見山暁治の風景デッサン(1978年、河出書房新社)
- 四百字のデッサン(1978年、河出書房新社) - のち文庫
- さあ絵を描こう(1979年、河出書房新社)
- パリ・キュリイ病院(1979年、筑摩書房)
- 遠ざかる景色(1982年、筑摩書房)
- 絵そらごとノート(1984年、筑摩書房)
- デッサン 素描集(1986年、用美社)
- セルフィッシュ(1990年、用美社) - 田中小実昌共著
- 一本の線(1990年、朝日新聞社)
- 野見山暁治作品集(1994年、講談社)
- 空のかたち 野見山暁治美術ノート(1994年、筑摩書房)
- 署名のない風景(1997年、平凡社)
- しま(1999年、光村教育図書)
- うつろうかたち(2003年、平凡社)
- 遺された画集 戦没画学生を訪ねる旅(2004年、平凡社ライブラリー)
- 野見山暁治 版画 1965-2002(2004年、アーツアンドクラフツ)
- いつも今日 私の履歴書(2005年、日本経済新聞社)
- ケムクジャーラ(2007年、ネット武蔵野)
- アトリエ日記(2007年、清流出版)
- アトリエ日記 続(2009年、清流出版)
- 「戦争」が生んだ絵、奪った絵(とんぼの本)(2010年、新潮社)
- 無言館はなぜ作られたのか(2010年、かもがわ出版)
- 異郷の陽だまり(2011年、生活の友社)
- アトリエ日記 続々(2012年、清流出版)
- やっぱりアトリエ日記(2014年、生活の友社)
- とこしえのお嬢さん 記憶のなかの人(2014年、生活の友社)
- じわりとアトリエ日記(2017年、生活の友社)
- みんな忘れた 記憶のなかの人(2018年、平凡社)
脚注[編集]
- ^ a b c “画家の野見山暁治さん死去 102歳 文化勲章受章 独自の自然描写”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2023年6月26日) 2023年6月26日閲覧。
- ^ a b c “画家で文化勲章受章者・野見山暁治さん死去、102歳…慰霊美術館「無言館」の顧問も”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2023年6月26日). 2023年6月26日閲覧。
- ^ 『平成26年度 文化勲章受章者:文部科学省』2014年11月。
- ^ 飯塚市の名誉市民飯塚市、2016年4月
- ^ 故郷・炭鉱の街、ステンドグラスに 洋画家の野見山さん朝日新聞、2016年12月21日
- ^ 尾道市立美術館「消えないもの 野見山暁治展」2013年
- ^ "DAIGO、三島由紀夫と親戚だった…9親等「やばいね」 加山雄三は19親等". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 11 February 2020. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 武富京子さん死去/高級クラブ「みつばち」の元ママ四国新聞社、2001/10/01
- ^ 石炭統制会設立十一月一日初委員会日本工業新聞 1941、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
- ^ 第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第57号昭和二十三年九月四日
- ^ 肺患い なぜか「乙種」合格…洋画家 野見山暁治さん 94読売新聞、2015年08月08日
- ^ a b 自著『四百字のデッサン』 1982年
- ^ “日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで”. 東京新聞. (2018年11月16日) 2019年2月28日閲覧。
- ^ 野見山暁治 (2014/10/20). とこしえのお嬢さん 記憶の中の人. 平凡社
- ^ “文化勲章にノーベル賞の天野さん・中村さんら7人”. 朝日新聞デジタル (2014年10月24日). 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月2日閲覧。
- ^ “練馬区、名誉区民を選定 画家・野見山暁治さん、漫画家・ちばてつやさん”. 練馬経済新聞 (2017年6月9日). 2017年6月10日閲覧。
- ^ “彫刻家高田博厚展を開催=埼玉県東松山市”. 時事通信. (2018年11月9日) 2019年2月26日閲覧。
- ^ “日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで”. 東京新聞. (2018年11月16日)
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2020年12月18日). “画家、野見山暁治さん100歳 「広くて深い、宇宙観を描きたい」 年明けに個展も”. 産経ニュース. 2021年12月7日閲覧。
- ^ “描き続けて、100歳~画家野見山暁治~”. RKBオンライン (2021年10月24日). 2021年12月7日閲覧。
- ^ “東京メトロ銀座線青山一丁目駅「みんな友だち」”. 日本交通文化協会 (2020年10月16日). 2023年1月31日閲覧。
参考文献[編集]
- 北里晋 『眼の人 野見山暁治が語る』弦書房、2010年、ISBN 4-86329-027-6
- 『ユリイカ 総特集 野見山暁治 絵とことば』 2012年8月臨時増刊号、青土社、ISBN 4-7917-0240-9
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