2019年7月25日 星期四

香港親中派議員何君堯。 谷牧 1914~2009《谷牧回憶錄》上海寶鋼


在香港籠罩在暴力與分裂的陰霾之際,親中派議員何君堯在深夜直播中點名反對派議員朱凱迪:「你前面一條是生路,另一條是不生路,你要選擇哪一條路,你早點決定」。
外界普遍認為,何君堯的這一言論是對朱凱迪的死亡威脅。此前,何君堯稱元朗襲擊者是在「保護自己的家鄉」。隨後,他的辦公室及其母親墳墓遭到抗議人士破壞。何君堯在沒有拿出任何證據的情況下,指責朱凱迪鼓勵了這種行為。

 谷牧 1914~2009《谷牧回憶錄》上海寶鋼

周日晚NHK,才知道上海寶鋼和《谷牧回忆录》(中央文献出版社2009年版)的故事。
印象最深刻的是,谷牧家人看其訪日,母親罵他是"漢奸" (後來,谷牧因促進中日資金技術等交流,日本政府授旭日大綬章
上海寶鋼是Nippon Steel 的技術,幾經波折,鋼廠蓋好,幹部保持聯絡,一起打golf等.....
回去查《谷牧回憶錄》,才知道他晚年主持《孔子世家谱》(续修13年 总费用1300多万元).....






《谷牧回憶錄》作者在本書中翔實地記述了自己為黨和人民的事業七十多年的奮斗歷程,及艱苦奮斗、辛勤工作、勇於犧牲、從普通黨員成長為黨和國家領導人,在國內各個革命戰爭時期、抗日戰爭時期、社會主義建設時期、社會主義建設新時期所親歷的重大歷史事件、老一輩革命家的高尚品德,還有對工作中的失誤和曲折的反思、總結。此書我社2008年出版第一版,此次為再版。

目錄


1 從膠東到北平
1.1 走上革命道路
1.2 在文登鄉師的崢嶸歲月
1.3 北平左聯——我的「大學」
1.4 身陷囹圄的考驗
2 五年東北軍(兵運)工作
2.1 當了張少帥的「學兵」
2.2 親歷西安事變
2.3 在抗日火線上
2.4 首次面謁周副主席
2.5 到萬毅部開辟「陣地」
2.6 爭取友軍,團結抗日
2.7 同反共降日逆流作斗爭
2.8 迎接東北軍——一師舉義
3 濱海十年
3.1 從「地下」到「地上」
3.2 留田星夜突圍
3.3 血灑大青山
3.4 接待少奇同志
3.5 甲子山驅頑
3.6 壯大濱海抗日根據地
3.7 在戰斗中迎來抗戰勝利
3.8 惜別羅榮桓同志
3.9 又開始了新的戰斗
3.10 苦戰濱海求解放
3.11 摧毀封建土地剝削制度
3.12 一切為了前方的勝利
3.13 接管新海連
4 在新中國初建的歲月里
4.1 泉城山水展新姿
4.2 黨中央關懷濟南
4.3 難忘的一次旅行
4.4 再進大上海
4.5 調國務院工作
4.6 「大躍進」的曲折
4.7 致力貫徹「八字方針」
4.8 應當牢記的教訓
4.9 大慶經驗的啟示
4.10 小心翼翼搞「社教」
4.11 建設「三線」爭朝夕
4.12 一次沒開成的重要會議
5 痛心疾首憶「文革」
5.1 驚疑、困惑和焦慮
5.2 陪少奇同志蹲點
5.3 工交座談會的較量
5.4 濃霧重重西南行
5.5 英勇的二月抗爭
5.6 在被誣陷的困境中
5.7 當兵做工下基層
5.8 周總理讓我抓港口建設
5.9 跟隨小平同志整頓工業交通
5.10 難撐又難忘的1 976年
6 改革開放年代
6.1 新中國對外經濟關系的新發展
6.2 決策前的醞釀討論
6.3 突破性的重大舉措
6.4 艱苦的推進
6.5 對外開放的春天
6.6 經濟特區發展的新里程
6.7 吸收外商投資工作的法規化
6.8 籌辦海南經濟特區
6.9 沿海開放的全面展開
6.10 旅游、民航在對外開放中的新發展
6.11 「過來人」的一些體會
7 關於孔子基金會的工作
7.1 鄧大姐點將
7.2 孔子基金會創辦初期的工作
7.3 對孔子歷史地位及其學說的再認識
8 完成保護恭王府等幾項周總理交代的任務
后記





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谷牧
Gu Mu 1940.jpg
谷牧(1940年)
プロフィール
出生:1914年9月
死去:2009年11月6日
出身地:中華民国の旗 中華民国(北京政府)山東省栄成県
職業:政治家
各種表記
繁体字谷牧
簡体字谷牧
拼音Gŭ Mù
和名表記:こく ぼく
発音転記:グー ムー
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谷牧(こく ぼく)は中華人民共和国の政治家。第5期国務院副総理、第7期全国政治協商会議副主席を務めた。1932年7月、中国共産党入党。元の名は劉家語だが、日中戦争期に家族に累が及ぶことを危惧し改名

栄成出身の共産党幹部合影(1954年)。左から谷牧、李耀文王一平曹漫之
中華人民共和国建国後は済南市党委書記。1952年上海に移り、市党委宣伝部長、副書記、工業生産工作委員会書記、華東局工業部長、上海局委員など。1954年11月には中央に転出し国家建設委員会副主任、1956年国家経済委員会副主任。1965年4月からは国家建設委員会主任に昇進するが、文化大革命中の1968年に失脚。
1973年に国家基本建設委員会、国家計画委員会副主任として復活。1975年1月第4期全人代第1回会議で国務院副総理に昇格。副総理に再選された1978年5月に経済代表団を率いてヨーロッパ5カ国を歴訪してその発展に衝撃を受け、訪日で同じく中国の遅れを痛感していた鄧小平らの支持を受けて外国から資金を借りて工業設備を導入する近代化プランを提案した。当時は自力更生路線の影響が残っており保守派からは売国だと攻撃されたが、第11期3中全会で改革派が主導権を掌握すると資金借り入れに奔走した。1979年日本ODA導入に貢献。1988年まで国務院の対外開放業務を主管した。
1988年に国務委員を退任し、4月の第7期全国政治協商会議で副主席に当選。儒教の復権を進め、郷里山東省出身の孔子の名を冠した孔子基金会を設立。孔子世家譜の完成を掲げた際には孔子第77代の子孫孔徳墉を通して台湾孔徳成から許可をとりつけた[1]。海外の大学における中国語学習と儒教発信の拠点となる孔子学院の発足にも寄与した。2008年4月、「日本の中国に対する円借款を導入する受け皿として主導的役割を担った」として、旭日大綬章を受章している
2009年11月6日、北京で病死。
中国共産党第11期、第12期中央委員、中央書記処書記。


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