2022年3月の深夜。その日は、特に気分が落ちこんでいた。布団にくるまって、カミソリの刃を長時間見つめた。蛍光灯の光で、刃が青白く光った。「人生に生きる意味はあるのか」。混沌(こんとん)とした考えが、ぐるぐると頭の中を回り続けた。
自殺をすることは、思いとどまった。刃を見つめていたとき、自分でも意外なほど、胸に怒りが湧いてきたから。
「これで死んだらダサすぎる。悔しいよ」
「最後は闘おう。好きなことをして燃え尽きよう」
頭に浮かんだのは、古本屋「ブックオフ」の本棚。深夜の町をさまようとき、必ず立ち寄り、100円均一の棚をあさった。池澤夏樹や町田康の小説を読んでいる数十分だけは、目の前の「クソな現実」を忘れられた。
思い返せば、中学生のころからそうだった。本を読んでも、吃音や、人間関係の悩みが解決するわけじゃない。ただ、読んでいる間だけは、物語の世界に逃げこめる。「死ぬ前に、自分もそんな本をつくりたい」と思えた。
当時28歳。出版社の職に応募したが、案の定、門前払いだった。
「学歴も、職歴もない俺には当然か」
ただ、こんな自分でも本をつくれたら、誰にでも本を出版できるという証明になると思った。手もとには、何があっても使わずにいた約300万円の預金があった。うつ病で自殺した祖父がのこしてくれたものだった。
【訃告】陳義雄(1939/07/26~2023/09/23)
我父親,他在入院後經過三個多月努力,陸續與親友會面,也讓家人們有最後的相處日子,好似他想以暑期的時間慢慢地告別。終於,今日下午在至親們的陪伴下辭世。在與他離開醫院至二殯後,看到清澈天空中徐徐落下的太陽,雲彩輝映著香草色的斑斕,彷彿他溫暖道別。感謝父親的一生付出,我們日後也預定在中山教會進行追思紀念,在此先行告知族親摯友。
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父親對臺灣古典音樂發展付出不少,在戰後音樂發展史有著以下評價:
「特別從1960至1980年代,古典音樂在臺灣的傳播,從初始到步上軌道,陳義雄的貢獻相當深遠。」《台灣音樂百科辭書》(遠流:2008)
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詳細他的事業,以辭條「陳義雄」記載於《台灣音樂百科辭書》(遠流:2008)
文錄於下:
【陳義雄】Chen Yixiong (1939.7.26彰化永靖)
古典音樂人、樂教推展工作者。永靖小學畢業後,赴臺北就讀建國中學初中部。因與舅舅一家同住,常隨表哥聆聽78轉的唱片,而開始接觸古典樂,同時亦學習小提琴,師事黃景鐘(臺灣省立交響樂團首席)。後就讀淡江英專(今淡江大學)五年制之英語專修科實驗班畢業,又插班東吳大學英語學系。英語閱讀能力之培養,對他日後從事古典樂的各種推廣活動幫助甚大。後任教於育達初級商業職業學校五年之久,業餘返回彰化縣、臺中縣教授小提琴。
1960年代起,開始一連串的音樂雜誌編輯工作,並籌辦音樂會,期間常用筆名,例如永靖人、雅音、音癡、花憐人、餘三館等。1966年,辭去教職接任《愛樂月刊》無給職主編長達十年之久,於愛樂書店出版各類音樂書籍;1974年與林宜勝共掌樂府音樂社之事務,至2002年為止營運近四十年,在臺北與其他城市推動許多音樂會,不僅引薦國際級演奏家,如舉辦馬思聰指揮省交(今臺灣交響樂團)慶祝音樂會,後沿著鐵路線去各大城市舉行個人演奏會,更策劃馬氏1968年、1972年與1977年三次來臺之音樂會;及承辦過許多臺灣音樂界重要人物的音樂會,如1960年代包括陳郁秀(1968.6.26)、陳秋盛(1969.12.13)等,1970年代包括蕭泰然(1975.3.2)、余由紀(聲樂1971.3.14)、臺北國際室內管弦樂團(1970.3.25)等,1980年代包括蔡采秀於1981年9月28日公開演奏江文也被查禁三十多年的三首舞曲、陳榮貴(1981.11.27),陳宏寬(1983.11.20),2000年以後,簡寬宏指揮臺北愛樂室內樂團與胡乃元合作「莫札特之夜」(1991.5.25)等;對作曲家新作品的推廣更是不遺餘力,如張貽泉、徐頌仁、楊聰賢等,於臺灣整體性的古典音樂推展有極大的貢獻。亦積極推廣豎琴教育。
因有機會成為許常惠歸國後第一位討教者,而對創作也有所涉獵。小提琴曲〈餘三館詠絮〉(2001)為其得意之作。臺灣古典音樂的發展,除大學所設之音樂科系培養專業學生外,一般對於古典音樂在社會樂教方面的推展全靠一些喜愛古典音樂,又具有熱情、不計實質回報的音樂人出書辦雜誌、舉行音樂會,特別從1960至1980年代,古典音樂在臺灣的傳播,從初始到步上軌道,陳義雄的貢獻相當深遠。
《台灣音樂百科辭書》pp.0530-0531
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