2008年2月24日 星期日

Walkman

http://lowendmac.com/orchard/06/sony-walkman-origin.html

The Story Behind the Sony Walkman



我還還是根據sony 官方說法和 日文wikipedia (英文版另外有德國的專利大戰) 之walkman 項目

我們應教育學生日本人的英文拼音而漢字為"輔"


井深大 Ibuka Masaru, April 11, 1908 in Nikkō City, JapanDecember 19, 1997 in Tokyo) was a Japanese electronics industrialist. He co-founded what is now Sony.



開発経緯

カセットテープタイプの初代ウォークマンの開発を言い出したのは、当時会長であり、創業者の一人でもあった、盛田昭夫であった。同氏の娘が海外旅行 から帰った際に「ただいま」も言わず自分の部屋で音楽を聴いていたのを見て、いつでもどこでも、音楽を聴ける物は作れないかと考え開発の指示をした。 当時社内から、スピーカーの無いプレーヤーは絶対に売れないと反発されたが、それを押し切り開発を続行、思いのほか音質が良いと感じたと言う。

  • 実際の開発は黒木靖夫指 揮のもと行われ、のちに黒木靖夫はウォークマン開発の功績によりソニー取締役になった。黒木氏は2007年7月に癌のためにこの世を去り、多くの経済紙な どが「ミスターウォークマン」の訃報を取り上げた。ウォークマン発売後もさまざまな商品を世に送り出し、近年ではワールドカップサッカーのフーリガン対策 に開発された「透明な盾」のデザインなども行っていた。また、自身が開発したウォークマンを脅かす存在のiPodに対しても高い評価




官方史

Listening to Stereophonic Sound while Walking
By the end of the 1970s, stereo cassette tape machines were a cherished fixture in many homes and automobiles. However, truly portable units with built-in speakers or for use with headphones were limited to monaural sound.

In 1978, Sony added the small TC-D5 stereo model to its well-known Densuke series of portable tape recorders. Although popular among audiophiles, the TC-D5 was too heavy to be truly portable and the cost was prohibitive at 100,000 yen.

Ibuka (then Honorary Chairman) was a regular user of the TC-D5, and he would take one with a set of headphones on overseas trips, so that he could listen to music in stereo on the plane. However, he found it too heavy. One day, before going on a trip to the United States, he asked Ohga (then Executive Deputy President) for a simple, playback-only stereo version of the pictPressman,pict the small, monaural tape recorder that Sony had launched in 1977. Ohga immediately called Kozo Ohsone, general manager of the Tape Recorder Business Division.

Ohsone immediately replied, pictYes, yes, I'll do it.pict He had his staff alter a Pressman, removing the record function and converting the machine to produce stereo sound. They then attached headphones and tried this creation. The resulting sound was actually quite good. Shortly after, Ohsone and his staff were working on this rather strange-looking combination of large headphones and a small Pressman, when Ibuka visited them to discover if they had created what he requested. Always interested in products under development, Ibuka had a habit of dropping in at Sony's various laboratories.

A prototype with large headphones.

A prototype with large headphones.

Ohsone suggested that Ibuka try the modified Pressman. Ibuka was pleasantly surprised by the powerful sound that came from such a small device, and he was reminded of the first time he had listened to stereo sound through binaural headphones at the 1952 Audio Fair in the United States.

Ohsone managed to provide a modified version of the Pressman in time for Ibuka's business trip, but it worked with small, special batteries. Ohga presented Ibuka with the unit, together with two batteries that he had an engineer from Ohsone's group rush around Akihabara (an electronics-shopping district in Tokyo) to find and a selection of classical music tapes.

Ohga's relief was short-lived. He received a call from Ibuka in the U.S., who said, pictThe batteries ran out on the plane, and I can't find any replacements over here.pict Ohga also realized that the tapes he gave Ibuka were blank, and he hurriedly called CBS Records in the U.S. to ask them to prepare a selection of music tapes for Ibuka.

Despite all this, when Ibuka returned from the U.S. he was obviously pleased with the unit, even if it had large headphones and lacked a record function. Ibuka went to Morita (then Chairman) and said, pictTry this. Don't you think a stereo cassette player that you can listen to while walking around is a good idea?pict Morita took it home to try over the weekend, and he was also impressed. He agreed with Ibuka that the sound was quite different compared to conventional speakers, and he was excited by the fact that the device could be carried around easily, creating a personal listening experience. Morita's business acumen alerted him to the great potential of this new item.

2008年2月22日 星期五

Masaru Ibuka

井深大先生,1933年畢業於早稻田大學科學工程學院,早在還是學生的時候他就以「動態霓虹燈」獲得巴黎萬國博覽會優秀發明獎。1945年日本第二次世界大戰後,首都東京一片廢墟,井深大日本橋地區的百貨公司倉庫成立「東京通信研究所」。盛田昭夫在井深大邀請下加入共同經營,公司並獲得盛田酒業19萬日圓資金,於1946年正式成立「東京通信工業株式會社」,出任公司高級總經理和代理董事。並遷址到現在的品川區御殿山

日本第一臺磁帶答錄機電晶體收音機、等代表Sony的眾多商品大都源於井深大先生的夢想,為今日Sony的成功奠定了堅實的基礎。1967年,索尼發表了由井深大親自加入開發「特麗霓虹」(Trinitron)映射管技術,這項技術使的索尼電視在全球熱賣,盛田昭夫自日本開發銀行借得巨額開發債務也在3年還清。特麗霓虹也是井深大引以為傲的技術。

作為一名重視創造力、獨特性的技術人員和企業家,井深大在公司「成立意旨書」當中期望此公司工程師是為理想而工作而不是為營利而工作,期待成為「工 程師的樂園」。井深先生把他強烈的好奇心、優秀技術人員特有的卓越洞察力和執著的熱情奉獻給了電子產業的發展。不拘泥於現有的技術、獨立研究開發出前所未 有、"觸動消費者心弦"的產品、創造全新的市場與需求正是Sony公司在50年間取得巨大發展的動力原因。

而專於技術研發的井深大與他的夥伴擅長公關的盛田昭夫的猶如兄弟般的友誼也被譽為美談。Sony誕生60年來,依舊秉承著井深--盛田式的經營理念,即通過獨特的產品研發,為顧客創造新的娛樂生活方式。

[編輯] 熱衷教育的貢獻

井深大的女兒年幼時連續高燒致殘,因此井深大除了在電子事業成就外,對於教育也是相當熱衷,他重視中小學的理科教育,在他的宣導下,1959年新力 公司在日本全國28所小學首次設立科學教育課程,井深先生於1969年設立了幼兒開發協會,積極地獻身於幼稚教育的研究,他在幼稚教育方面提出的許多主 張,被稱為「井深理論」。為表彰他在推動國民教育方面的突出貢獻,1972年公司成立了專門負責開展教育方面公益活動的索尼教育振興基金。

[編輯] 傑出貢獻的榮譽

1992年井深先生成為日本第一位獲得文部省(教育部)授予文化勳章的企業家。井深先生身為一名研究者、技術人員,以他特有的非凡見識、敏銳的洞察 力和卓越的獨創性,為眾多電子設備的研究開發及商品化做出了很大貢獻。他是將尖端電子技術廣泛運用到民用產品的先驅者。不僅如此,他為日本電子產業的發展 開拓了新的方向--從最初模仿改良已有的技術到開創全新的技術業務領域。由於他的這些傑出貢獻,他先後獲得日本政府頒發的藍帶綬章(1960年)、一等瑞寶綬章(1978年)、一等旭日大綬章(1986年)和正三位勳一等旭日桐花大綬章(1997年追綬,為日本國民可以獲得的最高榮譽)。



Masaru Ibuka (井深大 Ibuka Masaru, April 11, 1908 in Nikkō City, JapanDecember 19, 1997 in Tokyo) was a Japanese electronics industrialist. He co-founded what is now Sony.

He graduated in 1933 from Waseda University where he was nicknamed "genius inventor." After graduating, he went to work at Photo-Chemical Laboratory, a company which processed movie film. In 1945, he left the company and founded a radio repair shop in Tokyo.

In 1946 Ibuka and Akio Morita co-founded Sony Corporation, originally named Tokyo Telecommunications Engineering Corporation (prior to 1958). Ibuka was instrumental in securing the licensing of transistor technology to Sony from Bell Labs in the 1950s, thus making Sony one of the first companies to apply transistor technology to non-military uses. Ibuka served as president of Sony from 1950 to 1971, and then served as chairman of Sony between 1971 and 1976. Ibuka left Sony in 1976, but maintained close ties as an advisor until his death in 1997 of a heart failure.

Ibuka also authored the book Kindergarten is Too Late (1971), in which he claims that the most significant human learning occurs from ages 9 months to 3 years and suggests ways and means to take advantage of this.

[edit] Awards and honors

1995


略歴

  • 栃木県日光市に生まれる。
  • 神戸一中(現 兵庫県立神戸高等学校)卒。
  • 早稲田大学理工学部卒。
  • 学生時代の「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
  • 1946年 資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後に文相)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が 常務(営業担当)、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。以来、新しい独自技術の開発にチャレンジし、一般消費者の生活を豊かに便利にする新 商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品をつくりだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的 な大企業に成長していく。
  • 1950年 テープレコーダーを発売。東京通信工業社長に就任。
  • 1955年 トランジスタラジオを発売。
  • 1958年 それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した。
  • 1960年 トランジスタテレビを発売
  • 1965年 家庭用ビデオ・テープレコーダーを発売。
  • 1971年 ソニー会長に就任。
  • 1972年 国鉄理事、発明協会会長に就任。
  • 1976年 ソニー名誉会長に就任。
  • 1979年 日本オーディオ協会会長に就任。
  • 1987年 鉄道総合技術研究所会長に就任。
  • 1990年(平成2)ソニーファウンダー(創業者)・名誉会長に就任。

[編集] 特筆すべきこと

  • トランジスタ - アメリカで開発されたトランジスタを実用化、生産することにより前述のトランジスタラジオを世に送り、現在の電子立国日本の基礎を築く。
  • トリニトロンテレビ - 当初はクロマトロン方式にチャレンジしたソニーだったが、5年間の努力を続けても製品としての完成はほど遠かった。だが、その結果、全く新しい方式のブラウン管であるトリニトロンの開発に成功。色選別機構のアパチャーグリル、1ガン3ビームの電子銃、縦方向にゆがみのないシリンドリカルスクリーン・スクェアコーナーなど、独自技術により高性能を実現。他者は全て他方式であるシャドーマスク方式のブラウン管を採用していた中で、技術のソニーを見せつける製品となった。その後、シャドーマスク方式も進化を続け一部技術的に似通ってきた部分もあったが、元々の素性の良さと先行性から、テレビのブラウン管時代における高付加価値製品の位置を占め続けた。
  • ベータマックス - 家庭用ビデオテープレコーダーでは、自社開発によるベータマックスを推進。別方式であるVHSに結果として市場で完敗の結果となり、ソニーもVHSを一般市場にむけ生産する判断を行った。だが、ベータマックスやそれ以前からのビデオテープレコーダー開発により取得していた関連特許はVHSにも多く使用されている。また、放送用機材を初めとする業務用途では、性能を初めとする理由により現在でもベータマックスの進化系フォーマットが使用されつづけている。
  • 晩年には、従来広く認められている科学体系とは別角度からの新パラダイム模索のためにソニー社内にエスパー研究所を設立。主に「気」と呼ばれる存在についての研究を行った。これをオカルト的な疑似科学へ の傾倒と見るむきもあるが、完全な間違い。同所で行われた研究内容や手法は未解明の現象に対してであるが故に客観性を強く意識した厳しいものであった。同 研究所の設立は、当初はエレクトロニクスから始まり、後の発展においては音楽を初め、外食産業や雑貨輸入まで扱う幅広く多角的な存在にソニーを育てた、創 業者井深の、アグレッシブなチャレンジスピリットと、心や知、文化の根源を見つめるマインドの現れであり、極めてソニー創業者的であるといえる(井深逝去 後、同研究所は解散)。
  • 逝去直前には、身体の自由は利かなくなっており車いすでの移動を余儀なくされた。だが、当時の側近の言に因れば最後の最後まで頭ははっきりしてい たという。また、「今、なにがやりたいですか?」の問いには「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」との返答をしたという。
  • 共にソニー創業者である盛田昭夫らは、井深が海外出張などの知見を広げる旅程から戻ると「どうですか?10年後を見てきましたか?」と彼に陽気に聞いたという。
  • 井深の葬儀の際、江崎玲於奈は弔辞で以下内容を述べた。「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考え、見ることで、現在を、明 日を知るひとだった」。これは、井深をにまつわる逸話にも多くある内容。一例として、1980年代前半ごろのエピソードがある。井深が当時の新素材につい てソニー社内の担当責任者にその可能性について意見を聞いた際、その返答は満足のゆくものではなかった。担当者は、現在出来ること、近く出来ることと可能 性を話したが、井深は以下の内容を言ったという。「なぜ、そういう考え方をするのか。そんな数年後ではない。1990年や、2000年でもなく、2010 年、2020年にはどうなっているしどうなるべきだから、という考えかたをしないといけない」。

[編集] 教育活動

教育活動に熱心にとりくみ、1969年(昭和44)に幼児開発協会、1972年にソニー教育振興財団を設立し理事長に就任。また、1985年ボーイスカウト日本連盟理事長にも就任している。教育の持論は「この人の能力はこれだけだと決め付けていたらその人の能力は引き出せません。」だった。

[編集] 主な著作書籍

  • 幼稚園では遅すぎる
  • 0歳からの母親作戦
  • あと半分の教育
  • わが友本田宗一郎

[編集] 栄典

[編集] 関連項目

2008年2月21日 星期四

高坂知武

(生物機電系知武館四樓)

高坂知武教授紀念室開館

 農機系「高坂教 授紀念室」於去年校慶期間落成開館,以紀念台北帝大教授高坂知武。高坂教授為日本山形縣人,生於1901年,歿於1997年,享年97歲。教授專攻農業機 械學,1930年以30歲英年到台北帝大農學部農業工學教室擔任助教授,戰後繼續執教以迄退休,服務長達50年。改制後,農業工學教室更名為農工系,高坂 教授是當時該系農機組惟一的教授,為面對來自中國大陸的學生,授課由日語改成中文,教授亦勤奮學習中文,並自編自刻鋼版講義(現藏於紀念室),展現無比的 毅力與決心。

 教學而外,高坂教授還是台大交響樂團前身「台北帝國大學交響樂團」的大家長,斯人雖遠典型永在,因此農機系於1989年新建大樓完工後,特將之命名為「知武館」,今年並於高坂教授逝世週年,於館內設立「高坂教授紀念室」以永垂紀念。(農機系 提供)」臺大校友雙月刊 -1999台大出版中心近日出版第一本書《台大人類學系伊能藏品研究》

高坂知武,彭添松譯,《台灣人的生命力》思い出すままに,國立台灣 大學農業機械工程學系出版,2000

失樂園 http://blog.roodo.com/michaelcarolina/archives/5575585.html

"書是蘇正平兄所贈,因為高坂教授曾任台大交響樂團大提琴手。
本書由「財團法人農業機械化研究發展中心」經銷。請電:02-27583902,劃撥帳號:1025096-8,定價:$350"

-台大交響樂團四十年暨高坂知武教授紀念音樂會2007

2008年2月20日 星期三

The author James Patterson hopes to expand his audience.

An Author Looks Beyond Age Limits


Published: February 20, 2008

Three years ago James Patterson, the creator of the blockbuster best-selling Alex Cross and “Women’s Murder Club” series, began “Maximum Ride,” a series for young adults about a group of genetically mutated kids who are part human, part bird. The idea, he said, was to get children to love reading — or at least to love reading his kind of books.

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Sue Solie Patterson/Little, Brown

The author James Patterson hopes to expand his audience.

Tony Cenicola/The New York Times

Two of the books in Mr. Patterson’s “Maximum Ride” series.

Of the three installments to date, there are about 4.8 million copies in print, according to the publisher, Little, Brown & Company. Despite the kind of numbers that would make most authors beam, Mr. Patterson — who has an estimated 150 million copies of his books in print worldwide, and whose adult novels typically outsell his young-adult titles by two or three to one — wants to sell more. A lot more.

Now, with a new volume, “Maximum Ride: The Final Warning,” going on sale next month, Mr. Patterson figures the best way to get young readers may be through their mothers.

“The reality is that women buy most books,” he said in a telephone interview. “The reality is that it’s easier, and a really good habit, to start to get parents when they walk into a bookstore to say, ‘You know, I should buy a book for my kid as well.’ ”

As a result, Little, Brown has asked booksellers to commit to keeping the new “Maximum Ride” book — along with “The Dangerous Days of Daniel X,” the first title in a new young-adult series, due out in July — at the front of their stores as long as Mr. Patterson’s adult titles usually stay there, in the hope of luring more adult buyers.

In the past, Mr. Patterson, who is accustomed to having his books dominate the eagerly sought display tables and shelves at the front of the store, felt that the “Maximum Ride” books (on which he works with a co-writer) were getting buried in the children’s section. The most recent book in the series, he complained, “was No. 2 in the country of all books when it came out, and then it had a tremendous drop-off because it just kind of disappeared.” (According to Nielsen Bookscan, which tracks about 70 percent of retail sales, “Maximum Ride: Saving the World and Other Extreme Sports” sold 192,000 copies in hardcover, hardly a poor showing.)

In addition to wanting more young people to read the books, Mr. Patterson and Little, Brown maintain that more grown-ups would buy and read them, if only they could find them. According to market research conducted by Codex Group on behalf of Little, Brown, more than 60 percent of the readers of the “Maximum Ride” series are older than 35.

Publishers and booksellers have increasingly documented the popularity of young-adult titles among grown-ups. The Harry Potter books had as big a fan base among adults as they did among youngsters. Other titles by authors like Stephenie Meyer, who writes vampire romances, also for Little, Brown, and Philip Pullman, who wrote the “Dark Materials” fantasy trilogy, are snapped up by adults as well as young readers.

Hoping to capitalize on that trend as well as on Mr. Patterson’s existing reputation among adult readers, Little, Brown has altered the cover design of “The Final Warning” to appeal to a broader audience, emphasizing the book title rather than, as is common for books aimed at younger audiences, the series name.

And whereas the flap copy for the first three books named all the main characters and used exclamation points and short words, the new title’s flap copy employs a slightly more complex vocabulary and emphasizes the global warming theme at the center of the book.

On the back of both “The Final Warning” and “Daniel X” is a new marketing rubric defining each book as a “James Patterson Pageturner,” written “for readers from ten to a hundred and ten.” Reminding readers of the books’ young-adult roots, the pitch promises that “special care has been taken with the language and content.”

“The Final Warning” — which, like the other three titles in the “Maximum Ride” series, has an uncredited co-writer, Gabrielle Charbonnet — still bears the hallmarks of a novel aimed at juvenile audiences, with its irreverent teenage lingo and an action scene that hinges on one character’s flatulence.

In a typical passage, when Max, the 14-year-old narrator, is talking with Fang, her best friend and erstwhile boyfriend, he asks, “What do you want from me?” and Max is flustered. “I hated conversations like this,” she thinks, “hated talking about my feelings unless I was, like, furious. Then words came easily. But this mushy hearts-and-flowers stuff? Ugh.”

David Young, chairman and chief executive of Hachette Book Group USA, which owns Little, Brown, likens the books’ appeal to that of certain movies that cross age lines. “When you take kids out to see ‘Spider-Man,’ you don’t say, ‘I’m going to see a young-adult movie,’ ” Mr. Young said. “You go along and you’re entertained along with the rest of your family.”

Kim Yamaguchi, a stay-at-home mother in Palmdale, Calif., who reviewed “Saving the World and Other Extreme Sports” positively for Mothertalk, a blogging network (mother-talk.com), says she was surprised by how much she enjoyed the book. “He does a really great job of capturing your attention,” Ms. Yamaguchi said in an interview. “That’s great for kids, because if they don’t get their attention captured they’re not going to read.”

Ms. Yamaguchi said that she passed the book on to her 11-year-old daughter, and that they were both eagerly awaiting “The Final Warning.” Asked who was likely to read it first, she responded, “I will.”

Little, Brown has also asked booksellers to shelve hardcover editions of the new “Maximum Ride” title and “Daniel X” in the adult section. Six months after hardcover publication, it will release a paperback version for the young-adult sections of the bookstores, and six months after that a mass-market paperback edition for the adult shelves.

Booksellers have responded differently to the request. At Borders Group, Diane Mangan, the director for the children’s category, said that although the new “Maximum Ride” would be promoted heavily at the front of the store, it would ultimately remain in the young-adult section.

At Barnes & Noble, Bob Wietrak, a vice president for merchandising, said his chain would allow the “Maximum Ride” books to spend as much time at the front of the stores as one of Mr. Patterson’s adult titles would, and would shelve the hardcovers with the adult books, even though it has rarely done so for other juvenile titles, including the Harry Potter books.

Mr. Wietrak said he was willing to experiment. “If the sales grow and more readers are reading it, wonderful,” he said. “If we haven’t seen significant growth, then we would say, well, maybe only the young teenagers are still buying it and the adults didn’t want it.”

Michael Pietsch, publisher of Little, Brown, said that if the promotion works for James Patterson, it could work for other young-adult authors. “I do like the idea of making books available to as many potential readers as possible,” he said.

Mr. Patterson said that if he simply wanted to make more money, he would have developed another adult series. “I just am convinced that there aren’t enough books like this — books that kids can pick up and go ‘Wow, that was terrific, I wouldn’t mind reading another book,’ ” he said of his “Maximum Ride” series. “The most important thing to me is that more kids read these.”

村井弦斎Murai, Gensai.

2008/2/19 “獨賣”多介紹百年前日本食品安全等先知

食道樂

其中影響最大的是在《報知新聞》上連載的村井弦齋的小說《食道樂》,集成單行本出版後風靡一時,在半年中印了30版,據說成了當時女子出嫁時的必備品。 .

Hana. A Daughter of Japan.

Murai, Gensai.

Tokyo: Hochi Shimbun, 1904. lxv,297pp.

Extensively illustrated with colored engravings of great charm and beauty. Original pictorial cloth and box. Box rubbed. In very fine condition.

1904年10月に一冊の本が刊行された。タイトルは『Hana――a  Daughter of Japan』。中は英文だが、絹布張りの表紙に糸綴じという和装である。挿画の一枚は35回の重ね刷りで、百年近く経っていると は思えないほど色鮮やかで美しい。美術品のようなこの本の著者は村井弦斎、翻訳者は川井運吉と記されている。


村井弦斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村井 弦斎(むらい げんさい 村井 弦齋、文久3年12月18日1864年1月26日) - 昭和2年(1927年7月30日)は、愛知県豊橋市出身の明治大正時代ジャーナリストは寛(ゆたか)。三河吉田藩の武家の子。父も祖父も儒者として藩に使え、漢学をよくした家柄だった。父の村井清は著述家として『傍訓註釈 西洋千字文』など数冊の本を出版、また渋沢栄一の子息の家庭教師も勤めたほどの教養人であった。甥は作曲家の呉泰次郎である。

父は明治維新後、社会の身分の変動を目の当たりにしたことから「息子には漢学だけでなく洋学も早くから学ばせたい」と考えるようになり、1872年に一家の将来を9歳の弦斎に託し一家で上京した。

彼は幼少のころから、ロシア語の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の英才教育を受けた。1873年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)が開校すると、入学資格が13歳以上にもかかわらず、12歳で受験・入学させられた。猛勉強で首席にもなったものの健康を害し、1881年に露西亜語科を中退。その後、ロシア語の翻訳や著述で身を立てるようになる。しかし、家庭のしつけや猛勉強などがたたって、うつ病傾向などの神経性の疾患を抱え、しばらく療養した後に、20歳でアメリカに外遊、一年間滞在した。

帰国後、報知新聞客員となり、明治から大正にかけて著述家として活躍した。代表作は、報知新聞に1903年(明治36年)1月から12月まで連載された『百道楽シリーズ』で、『酒道楽』『釣道楽』『女道楽』『食道樂』 が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつ つを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説で ある。その中の『食道楽』(しょくどうらく)は、明治時代、徳冨蘆花の『不如帰』と並んで最もよく読まれ、小説でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、『美味しんぼ』や『クッキングパパ』などのグルメコミックの先駆けともいうべき作品である。ベストセラー作品として文学史的な評価も高い。また、「小児には德育よりも、智育よりも、躰育よりも、食育が先き。躰育、德育の根元も食育にある。」と食育という用語を記述した。続編も書かれたが、正編ほどの反響はなかった。『食道楽』の執筆前後、弦斎は、大隈重信の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、後藤象二郎の後妻であった。

結婚後、1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市平塚駅の南側に居住した。『食道楽』の印税で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、カキビワイチジクなどの果樹園温室ヤギウサギなどの飼育施設、果ては厩舎を築造し、新鮮な食材を自給した。当時は珍しかったイチゴアスパラガスの栽培まで行った。また各界の著名人を招待したり、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという美食の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の『食道楽』ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、脚気治療のために玄米食の研究に没頭し、また断食自然食を実践した。また、自ら竪穴住居に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。平塚市では、2000年以降、毎年秋に弦斎の住まい趾(弦斎公園)で弦斎祭りを開催している。

[編集] 主要な著書

入手可能なものを挙げる。

  • 『酒道楽』上下 新人物往来社 1977年(村井米子編)
  • 『釣道楽』上下 新人物往来社 1977年
  • 『定本食道楽』上-春の巻、夏の巻、下-秋の巻、冬の巻 新人物往来社 1978年(村井米子編)
  • 『食道楽』上 岩波文庫 2005年
  • 『食道楽』下 岩波文庫 2005年
  • 『酒道楽』  岩波文庫 2006年
  • 『食道楽の献立』角川春樹事務所 1997年
  • 『台所重宝記』平凡社 2001年 (村井米子編訳) ISBN 4582764185
  • 黒岩比佐子『「食道楽」の人村井弦斎』岩波書店 2004年

[編集] 弦斎を主人公とした小説

[編集] 外部リンク





『食道楽』の人 村井弦斎


本書の概要
  今からおよそ100年前に,10万部以上という当時としては破格の大ベストセラーである『食道楽』という小説を書いた作家がいた.その名前は村井弦斎.弦 斎は「報知新聞」をはじめとする新聞・雑誌に数多くの小説を連載し,その小説が洛陽の紙価を高からしめた,とさえ評された人気作家である.「報知新聞」に 足掛け6年連載した未来小説『日の出島』は,明治期に書かれた最も長い小説として話題を呼び,さらに,“百道楽”を小説に書くという壮大な構想のもとに生 まれたのが,『釣道楽』『酒道楽』『女道楽』などの教訓小説だった.1903(明治36)年に連載された『食道楽』は,小説の中に西洋料理,日本料理,中 国料理など実に630種ものレシピを織り込んだ奇書で,世間を大いに驚かせた.当時,ヒロインの名前をつけた料理屋が開店したり,「食道楽」という雑誌が 創刊するなど,“食道楽ブーム”が巻き起こる.歌舞伎座でも弦斎の脚本による『食道楽』が公演され,舞台の上で役者がシュークリームを作って観客に配るな ど,その奇抜な趣向が話題を呼んだ.
 村井弦斎は『食道楽』で得た収入で,神奈川県の平塚の地に1万6400坪の土地を購入し,菜園,果樹園,温 室,養鶏場,山羊舎などを設けて,自ら食道楽を実践した.料理上手で美しい妻と6人の子どもたちと共に,ユートピアのような生活を営む弦斎は,当時の文士 の理想の姿として羨望されもした.だが,あろうことか,晩年の弦斎は,美食とは対極にあるとも思える“断食”や“木食”の研究に没頭するようになる.35 日間の長期断食を実践して本を出し,山中で約半年間も穴居して,自然にあるものだけを食べるという“天然食”の記録を雑誌に発表するなど,あたかも「仙 人」のような生活を実践したため,次第に奇人視されるようになっていく.晩年の弦斎は文壇からすっかり忘れられ,今では文学史の上でもほとんど話題にされ ることはない.
 本書は,その忘れられたベストセラー作家である村井弦斎の厖大な書簡やノートや手帳などの未公開資料を調査し,謎に満ちた数奇な 一生を解き明かした初めての本格的評伝である.その人生の行路には,矢野龍溪,斎藤緑雨,宮武外骨,渋沢栄一,大隈重信など,思いがけない人々との交渉が 見え隠れする.村井弦斎の生の光と影を,幕末から昭和の初めまでの大きな時代背景に溶かし込んで描き出した本書は,もう一つの近代の落丁を埋めるものとい えよう.


著者略歴

黒岩比佐子(くろいわ ひさこ)
1958年,東京都生まれ.慶応義塾大学文学部卒業.ノンフィクションライター.著書に『音のない記憶――ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』『伝書鳩――もうひとつのIT』(いずれも文藝春秋刊)がある.


目次

 『食道楽』の人について
I 儒者の子――父の影の下で
生い立ちと時代背景
漢学の家/大逆転
東京外国語学校時代
ロシア語を学ぶ/洋学と漢学
挫折
脳病/「衛生」と「経済」/渡米
報知社入社
渋沢栄一と父清/矢野龍溪との出会い/『経国美談』の文体実験
II 「新聞小説家」村井弦斎
初期の小説をたどる
父からの“自立宣言”/亡き母への追慕/「郵便報知新聞」第一作/家庭小説を先駆ける/報知の四天王
大長篇『日の出島』へ
「都新聞」時代/日清戦争と「報知」/『日の出島』連載開始/ル・サージュ作『ジル・ブラース』/文壇批判としての「文学魔界」論
教訓小説としての『食道楽』
禁酒と廃妾の勧め/630種の料理/自費出版/食道楽ブーム/宮武外骨のパロディ
III ユートピア
多嘉子との結婚
「わが理想に適ひたる妻」/斎藤緑雨との交錯/妻への433通
日露戦争と『HANA』
日露戦争勃発/異色の英文小説/戦時下での看護婦たち/海外の書評など/鴎外の『花子』像
美食の殿堂――「報知新聞」から「婦人世界」へ
平塚「対岳楼」/婦人雑誌への転身/「成功者」/「ニコニコ」と長面会
IV “仙人”への途をゆく
断食・木食の研究
脚気論争/35日間の断食/『小松嶋』と木食仙人/山中穴居生活の実践
社会奉仕活動と健康食養法
古典芸能へのパトロネージュ/健康法ブーム/命がけの「研究」
人類と宇宙の一元論
関東大震災後/奇跡の治療法/息子の自殺/存在した遺稿
現代に生きる村井弦斎
  「20世紀の予言」/「食育」の思想/ジャーナリスト村井弦斎
調査・取材協力(個人・団体)
主要参考文献
村井弦斎年譜
あとがき
人名索引

御嶽山の小屋

2008年2月13日 星期三

市川崑 Kon Ichikawa

市川崑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

市川 崑(いちかわ こん、1915年11月20日 - 2008年2月13日)は日本映画監督三重県宇治山田市(現・伊勢市)出身。

目次

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[編集] 経歴・人物

1915年三重県宇治山田市に生まれる。幼少時は市川儀一という名前であり、成人してから市川崑に改名している。

東宝京都スタジオでアニメーターをつとめ、1945年人形劇『娘道成寺』デビュー。東宝東京撮影所から東宝争議のなかで新東宝撮影所に転じ、のちにまた東宝に復帰した。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を読んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。

1955年にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。『ビルマの竪琴』で一躍名監督の仲間入りを果たし、さらに大映に移籍。文芸映画を中心に『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』など名作を毎年のように発表して地位を確立した。とりわけ1960年の『おとうと』は大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで美しく表現、自身初の『キネマ旬報』ベスト1に輝く作品となった。

この時期は日本映画の全盛期であると同時にやがて映画産業の斜陽をもたらすことになるテレビの隆盛が始まる時期でもあった。映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持つ者が多いなか、崑は逆に新メディアの可能性に注目してこの分野に積極的に進出。フィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにはじまり、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマ、さらには生放送ドラマまでを手がけ、テレビ史においても先駆的な役割を果たした。

1972年に監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビジョン)はその斬新さから今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われている。

1965年には総監督として製作した『東京オリンピック』が一大センセーションを起す。崑はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を和田夏十谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。

しかも冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影した り、望遠鏡のような2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに 絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。

これをオリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判したことから[1]、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった[2]

1970年代横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛け、絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒットとなった。さらに『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリを翻案した『幸福』、『四十七人の刺客』、『どら平太』などの娯楽時代劇など、多彩な領域で成果を収める。

90歳を越えた2006年には30年ぶりに金田一耕助シリーズのひとつ『犬神家の一族』をリメイクするなど、晩年に至ってもなおその旺盛な製作意欲は衰えることはなかった。

2008年2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年94(92歳没)。

2008年6月公開予定の映画『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督作品)に1シーンで出演(映画監督役)する姿が最後の活動となった。

[編集] 作風

崑は大作『東京オリンピック』の後に人形劇『トッポ・ジージョのボタン戦争』を手がけたり、おどろおどろしい横溝正史の『獄門島』と『女王蜂』の間にアニメ合成を駆使した映像ファンタジー『火の鳥』を製作するなどその活動の幅は広く、作風は多彩である。脚本はすべて妻であり同志でもあった和田に委せるか、自らが全部または一部を手がけるというこだわりも見せる。1969年には黒澤明木下恵介小林正樹と4人で四騎の会を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、のちに自身で監督もしている。

崑は新藤兼人に次ぐ日本映画界の大御所であり、そのキャリアや興行力においては比肩する者のない存在だが、老いてなおその実験精神は衰えない。近年では黒鉄ヒロシのマンガによる紙人形で全編を撮影した『新選組』がファンの度肝を抜いた。また、30年前に自らが撮った『犬神家の一族』をまったく同じ脚本と同じ主演俳優でリメイクしてみたりもしている。

[編集] 影響

崑の独特の映像表現には定評があり、後輩の映画監督に多大な影響を与えている。

なお和田誠・森遊机 編の『光と嘘 真実と影 市川崑監督作品を語る』(河出書房新社、2001年)では塚本晋也井上ひさし小西康陽橋本治椎名誠宮部みゆきなど各界の市川ファンが賛辞を寄せている。

[編集] 人物

大変なヘビースモーカーとして有名。文化功労者に選出された1994年には『紅白歌合戦』に審査員として出演したが、司会の古舘伊知郎から「場内は禁煙でございますので」と忠告され頭をかいていた。

[編集] 和田夏十

詳細は和田夏十を参照

妻は脚本家和田夏十。東宝撮影所で知り合い、1948年に結婚した。和田は40年近くにわたって崑の生活を支えるかたわら、生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における崑のパートナーだった。そもそも「和田夏十」(わだなっと)という名は東宝撮影所時代に2人が共同執筆するためのペンネームとして使っていたもので、1951年の『恋人』で「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と崑がこれを妻に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。

[編集] 受賞

[編集] 映画賞

  • ロカルノ国際映画祭グランプリ
  • バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞
  • 1960年 『鍵』で
  • 1961年 『おとうと』で
  • カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンション
  • 1962年 『私は二歳』で
  • アジア映画祭監督賞
  • 1965年 『東京オリンピック』で
  • カンヌ国際映画祭青少年向映画賞
  • UNICRIT賞
  • 英国アカデミー賞長編記録映画賞
  • 国連平和賞
  • モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞
  • アジア太平洋映画祭グランプリ
  • 同・監督賞
  • 1984年 『おはん』で
  • アジア太平洋映画祭審査員特別賞
  • 2000年 ベルリン国際映画祭特別功労賞
  • 2001年 モントリオール国際映画祭功労賞
  • 2007年 東京国際映画祭黒澤明賞

[編集] 叙勲

[編集] 監督作品

[編集] 映画

[編集] 主なテレビ作品

[編集] 注釈

  1. ^ 後に崑は『朝日新聞』 とのインタビューで「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていない のが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」と当時を振り返っている(1985年8月27日付朝刊)。
  2. ^ 『東京オリンピック』はその芸術性が高く評価されて、同年度のカンヌ国際映画祭でドキュメンタリー作品としては異例の国際批評家賞を受賞している。また同作は映画館以外にも日本各地の学校や公民館などで上映会が開かれたことから、その観客動員数では事実上日本映画史上最多であるといわれている。

[編集] 関連項目


映画監督の市川崑さん死去

2008年02月13日23時16分

 「東京オリンピック」のメガホンをとり、「ビルマの竪琴」「細雪」などの文芸ものでは他の追随を許さなかった文化功労者の映画監督市川崑(いちかわ・こ ん)さんが13日午前1時55分、肺炎で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男建美(たつみ)さん。

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市川崑さん

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86年、吉永小百合さん(中央)との撮影現場

 三重県生まれ。伊丹万作監督の「国士無双」を見て映画に関心を持ち、東宝京都撮影所の前身、J・Oスタジオに入った。48年、新東宝の「花ひらく」で監督デビューした。

 51年、東宝に移ったころから都会感覚のさえを見せ始め、「結婚行進曲」「足にさわった女」「プーサン」と矢継ぎ早に話題作を発表。以降は、「こころ」 「ビルマの竪琴」「炎上」「鍵」「野火」「おとうと」「破戒」など文芸作品を、独自の解釈をまじえつつ安定した作風で次々と手掛けて「鬼才」といわれるよ うになった。「鍵」はカンヌ映画祭の審査員特別賞、「ビルマの竪琴」はベネチア映画祭のサン・ジョルジョ賞を受賞。

 「東京オリンピック」では、ドキュメンタリーのワクにとどまらない劇的効果を狙った映像で「記録か芸術か」の論議を巻き起こした。ま た、テレビでも「木枯し紋次郎」で茶の間のファンを沸かせた。76年からは横溝正史シリーズの「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」などを監督し、 娯楽ものに新境地を開いた。

 「細雪」や「おはん」「鹿鳴館」のほか、「ビルマの竪琴」では自作の再映画化に挑戦。「四十七人の刺客」で、95年の日本アカデミー賞の優秀作品賞と監督賞を受賞。94年、文化功労者に選ばれた。

 03年には小津安二郎監督の「晩春」をテレビでリメーク、06年には自作の「犬神家の一族」をほぼ同じ脚本でリメークするなど、製作意欲は最後まで衰えなかった。

 1月24日に息苦しさを訴え、都内の病院に入院していた。昨年8月、三谷幸喜監督の映画「ザ・マジックアワー」(今年6月公開)に映画監督役で出演したのが最後の活動となった。


Kon Ichikawa

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Kon Ichikawa (市川 崑 Ichikawa Kon?, November 20, 1915February 13, 2008) was a prominent Japanese film director.

Contents

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[edit] Early career

In the 1930s Ichikawa attended a technical school in Osaka. Upon graduation, in 1933, he found a job with a local rental film studio, J.O. Studio, in their animation department. Eventually he was moved to the feature film department as an assistant director when the company became a complete production company, working under such luminaries as Yutake Abe and Nobuo Aoyagi.

In the early 1940s J.O. Studios merged P.C.L. and Toho Film Distribution, forming Toho Film Company. Ichikawa moved to Tokyo. It was at Toho that he met Natto Wada. Wada was a translator for Toho. They agreed to marry sometime after Ichikawa completed his first directorial effort. They were both the products of previous failed marriages.

His first film, in 1946, was a puppet play, A Girl at Dojo Temple (Musume Dojoji), which was confiscated by the interim U.S. Occupation authorities under the pretense that it was too traditional. Thought lost for many years, it is now archived at the Cinémathèque Française.

[edit] Natto Wada

Her original name was Yumiko Mogi. Natto was born September 13, 1920 in Himeji, Hyōgo Prefecture, Japan. She graduated with a degree in English Literature from Tokyo Women's Christian University. She married Kon Ichikawa on April 10, 1948, and died on February 18, 1983 of breast cancer[1].

[edit] 1950–1965

It was after Ichikawa's marriage to Wada that the two began collaborating, first on Design of a Human Being (Ningen moyo) and Endless Passion (Hateshinaki jonetsu) in 1949. The period 1950–1965 is often referred to as Ichikawa's Natto Wada period. It's the period that contains the majority of his most highly respected works.

The majority of his most highly regarded films were screenwritten by his wife. This partnership began in 1949 with Design of a Human Being (Ningen moyo) and continued through to 1965 with Tokyo Olympiad. She wrote 34 screenplays during that period, most of which were adaptations. Wada had a talent for adapting other sources to the screen and that's where most of their partnership concentrated.

He gained western recognition during the 1950s and 1960s with a number of bleak films—two antiwar films with The Burmese Harp and Fires on the Plain, Alone on the Pacific (Taiheiyo hitori-botchi) and the technically formidable period-piece An Actor's Revenge (Yukinojo henge) about a kabuki actor.

Of his many literary adaptations, works including Jun'ichirō Tanizaki's The Key (Kagi), Natsume Sōseki's The Heart (Kokoro) and I Am a Cat (Wagahai wa neko de aru), about a mouse turned into a cat viewing the world from its unique perspective, and Yukio Mishima's Conflagration (Enjo), in which a priest burns down his temple to save it from spiritual pollution, were brought to the screen.

[edit] After 1965

After Tokyo Olympiad Wada retired from screenwriting and it marked a significant change in Ichikawa's films from that point onward. Concerning her retirement, he spoke, "She doesn't like the new film grammar, the method of presentation of the material; she says there's no heart in it anymore, that people no longer take human love seriously."[2]

Of the change Wada's departure marked, it is hard to extricate her from his work. The two worked very closely and shared many ideals. Whereas Ichikawa can be said to be responsible for much of the black wit in his films (that trend certainly continued beyond Wada's departure), she also had a sardonic side, as evidenced in many of her essays. Whereas people will attribute much of the humanity of his earlier films to Wada, humanity is still a major theme in the post-Wada films. About the only thing critics can agree on is that post-Wada Ichikawa films had a definite lesser quality to them (with a few notable exceptions).

Ichikawa died at age 92 in Ujiyamada, Mie Prefecture.[3][4]

[edit] Legacy

Ichikawa's films are marked with a certain darkness and bleakness, punctuated with sparks of humanity.

It can be said that his main trait is technical expertise, irony, detachment and a drive for realism married with a complete spectrum of genres. Some critics class him with Akira Kurosawa, Kenji Mizoguchi and Yasujiro Ozu as one of the masters of Japanese cinema.

[edit] Filmography

[edit] References

  1. ^ James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001, page 35.
  2. ^ James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001, page 40.
  3. ^ Obituary
  4. ^ "Japanese film director Kon Ichikawa dead at 92", Mainichi Shimbun, February 13, 2008. Retrieved on 2008-02-13.
  • James Quandt (ed.), Kon Ichikawa, Cinematheque Ontario, Toronto, 2001 (ISBN 0-9682969-3-9).

[edit] External links

日本知名導演市川昆因肺炎病逝 享年92歲(組圖)

http://chinanews.sina.com 2008年02月13日 17:48 新浪娛樂



市川昆在片場(資料圖片)




  新浪娛樂訊 日本知名導演市川昆因肺炎于本周三(2月13日)1時55分在日本東京醫院病逝,享年92歲。

   市川昆與黑澤明、木下惠介、小林正樹並稱日本影壇四騎士,他于1915年11月20日出生在三重縣伊勢,幼時喜愛繪畫藝術。最先在東寶卡通棚工作,後來 作為助理導演,默默耕耘很多年。到了新東寶後任導演,1953年第一部執導的《小熊維尼太陽》上映。後來又先後到過日活,大映。1956年拍攝的《緬甸的 豎琴》使他一躍成為著名的導演。1958年和1959年的《炎上》、《野火》使市川昆躋身到電影導演大師的行列。1965年拍攝紀錄片《東京奧運會》。 70年代中親自完成了橫溝正史的《金田一耕助》系列,以絢爛的畫面,緊湊的劇情得到了熱烈的歡迎。市川昆的作品一大部分都來自對文學作品的改編。《鍵》, 《我是貓》,《細雪》皆是如此。市川昆電影劇本的改編都是由他的夫人和田夏十完成的,二人在東寶攝影所相識,1948年結婚。和田夏十是個劇作家,既是市 川昆生活中的伴侶,也是其工作上的好搭檔。

  市川昆獨特的影像表現力對日後的電影導演也都產生了很大的影響,如庵野秀明,塚本晉也、小西 康陽等等。2000年,86歲高齡的市川昆把往昔四騎士黑澤明、木下惠介、小林正樹和自己合寫的劇本《放蕩的平太》搬上了銀幕。這是市川昆導演的第74部 電影,根據作家山本周五郎的原作《街道巡查日記》改編的古裝劇。影片的主人公多拉平太由役所廣司扮演。市川導演的最後一部作品是2006年的《犬神家 族》。

  市川昆主要電影作品:

  《娘道成寺》(1946年)

  《東寶一千零一夜 大阪篇》(1947年)

  《三百六十五夜》(1948年)

  《花開》(1948年)

  《無止境的熱情》(1949年)

  《人類的樣子》(1949年)

  《銀座三四郎》(1950年)

  《黎明的追捕》(1950年)

  《熱泥地》(1950年)

  《戀人》(1951年)

  《被盜的戀愛》(1951年)

  《無國籍者》(1951年)

  《夜來香》(1951年)

  《索羅河》(1951年)

  《結婚進行曲》(1951年)

  《觸到腳的女人》(1952年)

  《那只手這只手》(1952年)

  《年輕人》(1952年)

  《幸運先生》(1952年)

  《青色革命》(1953年)

  《愛人》(1953年)

  《胡塗先生》(1953年)

  《青春的錢形平次》(1953年)

  《把我的一切》(1954年)

  《關于女性的十二章》(1954年)

  《億萬富翁》(1954年)

  《心》(1955年)

  《青春怪談》(1955年)

  《緬甸的豎琴 第一部》(1956年)

  《緬甸的豎琴 第二部》(1956年)

  《日本橋》(1956年)

  《處刑的房間》(1956年)

  《東北的神武們》(1957年)

  《滿員電車》(1957年)

  《洞》(1957年)

  《燃燒》(1958年)

  《你和我的暗號 再見了,今天》(1959年)

  《野火》(1959年)

  《鑰匙》(1959年)

  《弟弟》(1960年)

  《女經》(1960年,吉村公三郎、市川昆、增村保造合導)

  《少爺》(1960年)

  《十個黑女人》(1961年)

  《破戒》(1962年)

  《我兩歲》(1962年)

  《獨渡太平洋》(1963年)

  《雪之丞變化》(1963年)

  《毅力的故事 金錢之舞》(1964年)

  《東京奧運會》(1965年,東京奧林匹克映畫協會,總導演)

  《源氏物語》(1966年,電視劇,伊丹十三出演)

  《托波吉吉的按鈕之戰》(1967年)

  《第50屆全國高中棒球選手權大賽 青春》(1968年,朝日新聞‧朝日電視新聞,總導演)

  《再愛一次》(1971年)

  《慕尼黑運動會》(1973年,與其他七位導演共同各執導一部分)

  《流浪》(1973年)

  《我是貓》(1975年)

  《犬神家族》(1976年)

  《妻子與女人之間》(1976年,與豐田四郎合導)

  《惡魔的數數歌》(1977年)

  《獄門島》(1977年)

  《火之鳥》(1978年)

  《女王蜂》(1978年)

  《醫院坡的上吊之家》(1979年)

  《銀河鐵道999》(1979年,動畫劇場版,監修)

  《古都》(1980年)

  《幸福》(1981年)

  《細雪》(1983年)

  《阿藩》(1984年)

  《緬甸的豎琴》(1985年,重拍片)

  《鹿鳴館》(1986年)

  《竹取物語》(1987年)

  《電影女演員》(1987年)

  《鶴》(1987年)

  《天河傳說殺人事件》(1991年)

  《歸來的寒風紋次郎》(1993年)

  《四十七個刺客》(1994年)

  《八墓村》(1996年)

  《放蕩的平太》(2000年)

  《新撰組》(2000年)

  《母親》(2001年)

  《夢十夜》(2006年)

  《犬神家族》(2006年,重拍片)

  市川昆獲獎情況:

  1956年 《緬甸的豎琴》

  ‧威尼斯國際電影節San Giorgio大獎

  ‧奧斯卡金像獎外語電影獎提名

  ‧里斯本國際電影節審查員特別獎

  ‧愛丁堡國際電影節最高獎

  1959年 《野火》

  ‧瑞士Locarno國際電影節最高獎

  ‧溫哥華國際電影節加拿大電影協會獎

  1960年 《鍵》

  ‧戛納國際電影節審查員獎

  ‧金手套獎外語電影獎

  1961年 《弟弟》

  ‧戛納國際電影節法國電影高等技術委員會獎特別mention

  1962年 《我兩歲》

  ‧亞洲電影節監督獎

  1965年 《東京奧運會》

  ‧戛納國際電影節青年電影獎

  ‧UNICRIT獎

  ‧英國奧斯卡金像獎長篇記錄影片獎

  ‧聯合國和平獎

  ‧莫斯科國際電影節體育聯盟獎

  1983年 《細雪》

  ‧亞洲太平洋電影節最高獎

  ‧同‧監督賞獎

  1984年 《阿藩》

  ‧亞洲太平洋電影節審查員特別獎

  1994年 《忠臣□ 四十七人の刺客》

  ‧東京國際電影節審查員特別獎

  2000年 柏林國際電影節特別功勞獎

  2001年 蒙特利爾國際電影節功勞獎

  2007年 東京國際電影節黑澤明獎

延伸閱讀:

市川昆:何謂演出家

市川昆:向不可能電影化的題材挑戰

市川昆:描寫拼命生存的人之樂趣的《億萬富翁》

市川昆:窺視小小個人心中的主題

市川昆:戰爭中的人──《野火》

市川昆:富有風俗情調的電影──《少爺》

市川昆:孤獨中的充實感──《東京奧林匹克》


市川崑

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日語寫法
日語原文 市川 崑
假名 いちかわ こん
罗马字 Ichikawa Kon

市川崑(いちかわ こん,1915年11月20日2008年2月13日)電影導演,與黑澤明木下惠介小林正樹並稱日本影壇四騎士;以推理探偵小說家橫溝正史的『金田一耕助』系列為劇本拍成電影珣爛画面,緊凑的劇情大受歡迎,也是日本國粹派重要導演。

2006年,岩井俊二拍摄了以市川崑一生经历为主题的纪录片市川崑物语》。

[编辑] 生平

  • 最先在東寶卡通棚工作,後來作為助理導演多年
  • 到了新東寶後升任導演
  • 作品一大部分都來自文學作品的改编。鍵,我是一隻貓,細雪大抵如此。而电影剧本的改编都是由他的夫人和田夏十完成
  • 獨特的影像呈現魅力,對日後的導演發生了很大的影响,像:庵野秀明塚本晉也小西康陽
  • 小熊维尼太陽》第一部導演電影上映,1953年;又到過日活大映電影公司
  • 緬甸的竪琴》:成名之作,大獲國際好評,講述一位日軍在緬甸逃兵出世為僧彈著豎琴沿途超度戰場屍骨,1956年。

[编辑] 作品

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