市村 清 先生影響台灣的一些重要的企業家(三愛電子)......
文星叢刊 ◎丁策譯《市村自傳》1966
市村清自傳.: 作者:市村清著;丁策譯;臺北 :傳記文學; 出版地; 1970
市村 清 (いちむら・きよし)
[日]緒方惟精著,丁策譯:《日本漢文學史》(臺北:正中書局,1968 年),1980 年4 月,台三版
-----
創業之神-市村清
「出生在貧困之中,造就今日的億萬富翁!」歷經三餐不繼、沿街叫賣,為了五分錢而休學的童年,外在的貧果環境並沒有擊倒他,反而豐富了他內在的精神鬥志,也因此造就了日後同時擁有十幾家企業的市村清,所以有時不幸比幸福,更能成為勵志向上的動力!
市村清本著「愛人、愛國、愛工作」的三愛精神,創造精神,創造輝煌的「理光三愛」世代,同時被譽為「市村學校校長」 ,對於一個中途輟學兩次的人來說,這個封號彌足珍貴。也願以其奮鬥的一生,啟發更多優秀的企業領導者,和鼓舞更多面臨困境的人。
****
市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。昭和初期から43年の日本を代表する経営者の一人。
「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。現在も銀座4丁目交差点に建つ、円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものである。
産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。
目次[非表示] |
経歴 [編集]
佐賀県三養基郡北茂安村(現・みやき町)の農家市村豊吉の長男として生まれる。父豊吉は市川虎之丞という佐賀藩士の子で武士の出だった。豊吉は7歳のとき市村家の養子になった。
名門・佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)に入学するも、経済的困窮により2年で中退を余儀なくされる。その後野菜売り、銀行員を経て、中央大学専門部(夜間)法科に入学する。1922年、日中合弁の「大東銀行」に入社するため大学を中退、北京に渡る。
昭和金融恐慌のため、1927年大東銀行は閉鎖される。帰国した市村は富国徴兵保険(現・富国生命保険)のセールスマンとして再出発し、赴任先の熊本で抜群の成績を上げる。
1929年、縁あって理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得する。1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。1942年には理研産業団より独立する。
1945年終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義を モットーに「三愛商事」を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業する。銀座の土地は買収に難航したが、ある地権者 の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交 渉がまとまったというエピソードは有名である。
1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。
この他、西銀座デパート、日本リース(リース会社の先駆け、1998年倒産)など各社を次々と設立、1962年には経営不振に陥った名古屋の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在のリコーエレメックス)。「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。
1965年、リコーは無配に転落し、世間からは一転してバッシングが浴びせられることとなる。市村はこれに耐え、組織の効率化と業績給導入を柱とする改革を陣頭指揮で推進、「電子リコピー」の成功により2年後に復配を実現し、現在のOA機器メーカーとしての隆盛の基礎を築く。
晩年、技術革新のための研究開発助成を目的とした財団法人の設立を発案し、亡くなる直前の1968年12月12日に財団法人新技術開発財団の設立認可が下りている。同財団では市村の遺志を継ぎ、科学技術の分野で学術、産業の発展に貢献した個人・団体を表彰する市村賞を運営している。
1968年12月16日、急性肝萎縮症のため逝去。享年68。[1]
語録 [編集]
- 「書いたものより口約束こそは守れ。うそをついてはいけない。」
- 「もし成功に秘訣があるとすれば、他人の立場を理解し、他人の立場から物事をみる能力を持つことである。」
著書・伝記 [編集]
- 著書
- 『儲ける経営法・儲かる経営法』
- 『人の逆をいく法』
- 『光は闇をつらぬいて』
- 『闘魂ひとすじに』
- 『そのものを狙うな』
- 『明日への着眼』
- 『市村清講演集』
- 伝記
- 『茨と虹と 市村清の生涯(上)(下)』尾崎 芳雄(著)
いずれも三愛会 - 三愛新書(非売品)であり、書店には流通していないが、個別に実費頒布となっている。
他に追悼文集(1969年)が出されているが、絶版である。
注釈 [編集]
- ^ 正確には肝臓等への胃癌の転移により亡くなる。発表は当時状況を鑑みての措置であった。尾崎芳雄著『茨と虹と 市村清の生涯』より。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
----
◆ 昭和の経営者の群像 ◆
RICOHの創業者 市村 清さん
株式会社リコー HPより転載
私の履歴書(昭和の経営者群像 全10巻)のなかで一番好きな人です。
できることなら社員、知人の皆さんに市村清さんの「私の履歴書」全文
(60頁以上あるのです。)をコピーして配りたい。
以下、私の履歴書(日本経済新聞社 1992年10月刊)からの抜粋です。
市村 清 (いちむら・きよし)
明治33年佐賀県生まれ。
昭和4年理研感光紙代理店を経て11年理研感光紙の代表取締役。
20年三愛創立。明治記念館、日本リースなど創立。
40年不振のリコーを再建。43年新技術開発財団設立。
43年12月6日死去。
【プロフィール】
苦学して通学していた中央大学を、転地療養のため三年で退学、
北京に渡り、大東銀行に入る。昭和二年の恐慌で銀行が閉鎖した
あと、身に覚えのない横領容疑で百三十五日も収監、浪人となり
熊本で保険の外交を始める。
「実に思わぬ難物だった。六十日が経ったがひと口もままならない。
上海の独房で得た信念もぐらつきそうになった……
暮れも押しつまった二十三日、保険募集を始めてから六十八日目に、
精も根もつきはてとうとう私は妻の前にシャッポを脱いだ。」
妻に「あなたの履歴に成果のなかった仕事が残ることになるのが、
くやしくありませんか」と言われ、通いつめた家に九回目の訪問を
する。そして喜んで迎えられる。
「私が呼び鈴を押そうか押すまいかと迷っていたときは、すでに
紙一重のところにいたのだ……それからは次から次へとんとん拍子
に契約ができていった……みな七十日もの間、私がムダ骨のつもり
で回っていることを知っていた。」
(昭和37年2月連載)
市村清さんは三愛、リコー、三愛石油、日本リースなどを創業した。
今流の起業ではなくて、理研の総帥 大河内正敏氏に認められ、
それを意気に感じ、また衝突して、という流れの中で大きくされたのだ。
市村清さんは、大きな山と谷の連続の人生だったと思う。
でも幸せそうだ。
爽快に、腹をきめて生きたから。
私が魅力に感じ、市村さんの「私の履歴書」が忘れられないのは、
成功を収められるよりもずっと前の、いくつかのエピソードだ。
ひとつは上述の保険外交時代のこと。
もうひとつは、理研に移ってからのこと。
市村清さんは、感光紙の代理店として福岡で大成功し、
理研の大河内氏に見出され本社の感光紙部長に抜擢されるも、
社内周囲の冷たい仕打ちで大変な苦労をし、それでもついには
独立会社として子会社の社長を任される。
しかし、またしても周囲のやっかみと策略で陥れられる。
誰が聞いても怒り心頭に発する卑怯な目にあった。
わいろを受けたと嘘の噂を流され大河内総帥から詰問された。
ひときわ猛進型の市村清さんは、そのとき何と答えたか。
【抜粋】
… 私は大河内先生に呼ばれてひどく叱られた。中には「市村が
王子(製紙。筆者注)の不良紙を使うために、某氏から五万円(筆者注)
もらうのを隣のへやにいて聞いた」などと投書した奴もいた。
大河内先生にそれを見せつけられたとき、私は「そんなものは、
新橋と赤坂でのんでしまいましたよ」と答えておいた。
(中略)
… このとき王子から私のところへ連絡があって、ちょっと来てくれ
という。何事だろうと思っていってみると
「北村工場長が不良紙を量産したとき、あなたの方は納入先から
文句を言われながら、私の方には何も言ってこなかった。
こんど紙が統制になりますが、そのときのお礼に、
理研には逆に三割増しましょう」
と言われた。北村さんのときは実は私も全く困ったのだったが、
まさか、それが営業面での大きなプラスになって返ってこようとは
思わなかった。そのうえ、引き取ってあった不良紙の残りも、ハルビン
の北原という紙屋がうわさを聞いて譲り受けたいと言ってきた。
ウォーターマーク(すかし)がはいっていても、満州ではかまわない
という。これも紙の不足からポンド十銭五厘で引き取ったものが、
四倍以上の四十五銭という値がついたのである。これは時勢の運が
私に幸いしたのであったろうが、人のために誠意をつくしたことは必ず
よい結果を生む、という信念を私に植えつけた。告げ口の五万円も
事実無根とわかり、私はまたにわかに大河内先生の信任を取り戻した。
注: 昭和14年頃の5万円なので、数千万円相当か?
このエピソードを、私は忘れない。
いや、長い間忘れていたかも知れない。
もう一度肝に銘じよう。 大きな心を心掛けよう。
沒有留言:
張貼留言