"以戒為師"的弘一法師,可以稱為禪師乎?
東京芸術大学是一藝術家資料的寶藏
我記得弘一大師的留學期作品 那兒都還收著
- 法名與號:出家後法名演音,字弘一,號晚晴老人。
- 字號的含義:
- 「弘」:意指弘法、宏大。
- 「一」:象徵一心一意,也代表在修持上持戒嚴謹,專注於南山律宗的戒律研究。
- 出家誓願:弘一法師出家後,誓言「非佛書不書,非佛語不語」,專心修持。他的書法亦成為「寫佛語結緣利生」的工具,展現出「弘一大師」致力於弘揚佛法的精神。
- 晚號:法師晚年號「晚晴老人」,亦常以「悲欣交集」來形容心境。
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藤田嗣治の遺品6千点、母校に寄贈 日記や写真など
2011年2月9日0時17分
東京芸大に寄贈される藤田嗣治の日記や写真=東京・上野公園の東京芸大・大学美術館
藤田嗣治
エコール・ド・パリの画家藤田嗣治(つぐはる=1886~1968)の戦前の日記が見つかり、戦後の日記や遺品と合わせて約6千点が、母校の東京芸術大 学に寄贈されることになった。2009年に亡くなった妻・君代さんの相続人の代理人を務める角田昌彦弁護士が7日、明らかにした。
藤田は、乳白色の絵肌に女性や猫を線描する画風でパリの人気画家になった。遺品は君代さんが保管していた。
寄贈品の中心は、1930年から亡くなる68年までの日記類。東京芸大・大学美術館の古田亮准教授によると、30~40年の日記のほとんどは、研究者に も存在が知られていなかったという。また、日記は、戦時中を含む41~46年が欠けていた。藤田が戦争記録画を描き、後に戦争協力を指摘された時期と重な る。批判された藤田は戦後に渡仏、カトリック信者となり、フランス国籍まで取った。
ほかに、多数の写真や映像を撮った16ミリフィルムなどを寄贈。東京芸大は、2011年度から資料の整理と分析を始める予定だ。
藤田に詳しい京都国立近代美術館の尾崎正明館長は「藤田の著作から戦後だけでなく、戦前の日記もあると思っていたが、現物は出てこなかった。貴重な資料 だ。資料の整理が進めば、フランス国籍になり、洗礼を受けた心の動きまで分かるかもしれない」と話している。(西田健作)
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藤田嗣治
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
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生涯 [編集]
パリに至るまで [編集]
1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されている。
藤田は子供の頃から絵を描き始め、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
パリでの出会い [編集]
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八 金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。
「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」
と藤田は自身の著書で語っている。
第一次世界大戦 [編集]
1914年、パリでの生活を始めてわずか一年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3 月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月 後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
パリの寵児 [編集]
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
日本への帰国 [編集]
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、再び不倫の末に離婚。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
2年後に日本に帰国、1935年に20数才離れた君代と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
帰国後は戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われる事となり、千葉県内の味噌醸造業者に匿われていた事もあった。
晩年 [編集]
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。40年以上を経た2009年4月2日に東京で、98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。
戦争画 [編集]
戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画) を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、 凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入 れ表現している。
戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に 入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残して パリへ向かい二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、 「国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも述べている。
パリでの成功後、そして戦後と、生前の藤田はついぞ日本社会からは認めてもらえなかった。また君代夫人も没後「近代日本洋画シリーズ」等の、他の洋画家達と共同での画集刊行は断ってきた。近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになった。
大戦中のプロパガンダ芸術の画家たちの協力は、当時の時代背景からは大半の作家にとっては回避できない事柄であり、事実それを断ると公式な展覧会な どを含む画壇からの実質的な追放や画材の供給がもらえない等の背景があった。取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にある為軍関係者には知故が多く、また戦後 占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
しかし、藤田は元々日本画壇に根ざし属して成功した人物ではなく、欧州で活動し成功していた為もあり、当時の日本人画家からは羨望を交えた非難中傷 が主な理由で彼を日本では制作しにくい立場に追いやったことは否めない。しかし、現在でも彼の第二の故郷ともいえるフランスや欧州の美術市場で十分な評価 がされている以上、美術的には正当な評価は確定したといえる。
乳白色の肌の秘密 [編集]
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。これが藤田の絵の秘密であったと考えられている。さらに、戦時中の絵画にはシッカロールを用いていたことが2011年に発表された[1]。
また、面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていたことも修復により判明した。
作品 [編集]
彼の作品は東京のブリヂストン美術館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。 関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵・・」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。 晩年に手がけた最後の大作は、死の直に書き上げたランスの教会における装飾画である。
また、多くのエッセイを書き残している。彼の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグは『腕一本・巴里の横顔』(講談社文芸文庫、2002年)に収められている。「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
関連図書 [編集]
- 藤田君代監修 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』講談社 2002
- 近藤史人 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社、2002.11、講談社文庫 2006)
- 湯原かの子 『藤田嗣治』(新潮社、2004)
- 林洋子『藤田嗣治作品をひらく 旅・手仕事・日本』名古屋大学出版会、2005
- 蘆原英了 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』 (新宿書房 新版2007)解説田之倉稔
- 渡部琴子 『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』(新潮社、2002.12)
- 林洋子『藤田嗣治 手しごとの家』(集英社新書ヴィジュアル版、2009.11)
- 『ユリイカ詩と批評 藤田嗣治』(2006年5月号 青土社)
外部リンク [編集]
- 藤田の「戦争画」紹介
- 家系図
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Yoshida Kenji (Japanese: 吉田堅治); May 24, 1924 – February 24, 2009) was a Japanese artist who created abstract works exploring themes of "La Vie et La Paix" (Life and Peace).
他被譽為“靈魂藝術家”或“光之藝術家”,曾在大阪和東京的小學任教美術。 1964年,40歲的他毅然辭去教職,前往法國巴黎,追尋成為全職藝術家的夢想。
吉田在巴黎蒙帕納斯區的工作室創作,以「生命與和平」(La Vie et La Paix)為主題,創作了許多偉大的藝術作品,成為他那一代最傑出的藝術家之一。
吉田堅治;1924年5月24日-2009年2月24日)是一位日本藝術家,創作的抽像作品探討了「生命與和平」(La Vie et La Paix)的主題。
生平與事業
吉田堅治出生於日本大阪附近的池田市。在池田師範學校學習藝術後,他於1944年應徵入伍,加入日本海軍,並接受了神風特攻隊飛行員的訓練。 [1] 1945年第二次世界大戰的結束使他免於此役,但這段經歷深刻地影響了他的藝術理念。戰後,吉田堅治在大阪和東京擔任美術教師。 1964年,40歲的他辭去了教職,前往巴黎追求藝術創作。在那裡,他進入了由史丹利威廉海特創立的著名版畫工作室Atelier 17學習。 [2]
1972年,法國政府批准他居住在蒙帕納斯,並在那裡度過了他生命的大部分時光。 [3] 1986年,他的妻子因癌症去世,這成為他藝術發展的一個重要轉捩點。吉田在2009年2月24日因癌症去世前不久返回日本,享年84歲。 [4]
藝術作品
自1978年起,吉田將所有畫作都命名為「La Vie」(生命),並解釋說:「與其表達生命中瞬息萬變的瞬間,我更應該表達生命中一個永恆不變的瞬間。」他的作品將油彩與金箔、銀箔或鉑金箔相結合,創造出具有非凡深度的光彩表面。這種在1980年代發展起來的技法,既體現了日本的藝術傳統,也反映了西方的抽象藝術理念,使他處於一種文化交融的模糊境地,這也導致了他在藝術評論界的冷落。吉田最雄心勃勃的作品是名為「祈禱之地」的 12 幅面板裝置作品,獻給世界和平,該作品在 2000 年至 2003 年間巡迴展出於英國和愛爾蘭的主要大教堂。 [4]
Life and career
Yoshida was born in Ikeda, near Osaka, Japan. After studying art at Ikeda Normal School, he was conscripted into the Japanese Navy in 1944 and trained as a kamikaze pilot.[1] The end of World War II in 1945 spared him from this fate, but the experience profoundly influenced his artistic philosophy. Following the war, Yoshida worked as an art teacher in Osaka and later Tokyo. In 1964, at age 40, he resigned his teaching position and moved to Paris to pursue art. There he studied at Atelier 17,[2] the influential print workshop founded by Stanley William Hayter.
In 1972, the French government granted him permission to live and work in Montparnasse, where he remained for most of his life.[3] The death of his wife from cancer in 1986 marked a significant turning point in his artistic development. Yoshida returned to Japan shortly before his death from cancer on February 24, 2009, at age 84.[4]
Artistic work
From 1978 onward, Yoshida titled all his paintings simply "La Vie" (Life), explaining: "instead of expressing the ever-changing moment of life, I should express one immovable moment of life." His work combined oil on canvas with gold, silver, or platinum leaf, creating luminous surfaces with exceptional depth. This technique developed in the 1980s reflected both Japanese artistic traditions and Western abstract sensibilities, placing him in an ambiguous position between cultures that contributed to his critical neglect. Yoshida's most ambitious work was a 12-panel installation titled "Place of Prayer," dedicated to world peace, which traveled to major cathedrals across the UK and Ireland between 2000-2003.[4]
- 阿部菜穂子「英カンタベリー大聖堂を飾った異色絵画 日本人画家の切なる思い」『サンデー毎日』、2003年11月9日号
- 「CRITIQUE : KENJI YOSHIDA : ARTIST OF THE SOUL - AN INTRODUCTION」『CHIARSCURO MAGAZINE』[7]
油絵を紙に描いた作品もこの頃に制作している。
1978年 ミラノ、フィレンツェ、ピサ、シエナを訪れる。
5. 絵の題名「La Vie(生命)」
この頃からすべての絵の題名を"La Vie (生命)"と名付けるようになる。
「いのちを一層考えてゆくとその根源を現すのはどのようにすべきかと思考を推し進めた結果、やはり刻々の働きの姿を描くのでなく一つの動かぬいのちの中にあらゆる時の働きを表現すべきだと悟り以後題名を「いのち」とし、形も色もそれに応じて使うことになった。」(吉田のノートより)
1983年 日本再認識の必要を感じて20年ぶりに帰国。3ヶ月間滞在し、各地を見て回る。
「絵の為にもどうしても一度日本を見直す必要を感じています。費用の方は借金しますがこれは今回は久々の帰国なので友人、知人に無理を願って何とかなると思っています」 (1982年11月19日 吉田の手紙より)「経済的には恵まれていませんが心は豊かに過ごせるのを感謝する毎日です」(1983年7月26日 吉田の手紙より)
https://www7b.biglobe.ne.jp/~kenji-yoshida/index.html







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