2008年1月15日 星期二

飯田 亮(いいだ・まこと)

飯田 亮

飯田 亮(いいだ・まこと)
東京都出身。学習院大学政経学部卒業後、家業である酒類問屋「岡永」に入社。1962年、大学の同窓生・戸田寿一氏と日本初の警備会社「日本警備保障」を 創業。76年代表取締役会長。83年、社名をセコムに変更。97年、取締役最高顧問に就任。一代でセコム・グループを築き上げた日本を代表する創業経営者 である。 

日本保全教父飯田亮推崇混血組織:「混血組織比純血組織強」,創新,要導入外來文化,讓組織感受壓力。


本篇文章摘自: 商業周刊第 969 期
作者:曾如瑩

在日本人連保全是什麼都不知的年代,飯田亮就投入這個行業。45年來,他不斷革自己的命,不斷重新定義保全觀念,將Secom推上日本第一大保全企業。


二十四顆衛星隨時定位,在一秒鐘內可以正確找出小孩的位置,這不是電影情節,而是中興保全在今年新推出的行動保全服務。這項服務來自日本的西科姆(Secom),四年前在日本推出此項服務時,第一年就吸引了十三萬戶加入。

這項新潮服務的發想人,卻是高齡七十三歲的老先生飯田亮。他,是日本保全業教父,花了四十五年歲月,從無到有,一手創建日本最大保全企業西科姆,在日本保全業的地位,就像是張忠謀之於晶圓代工產業。
追求不斷創新,革自己的命、永遠的先行者精神,讓飯田亮始終走在日本保全業的尖端,引領觀念與商業模式創新,他是日本第一位投身保全業,第一位開發機器保全,也是第一位將保全業務跨足醫療照護產業,顛覆保全只是巡邏警衛的刻板印象。

去 年西科姆在日本保全市場的市占率高達六成,營收達五千五百億日圓(約合新台幣一千五百六十億元),為第二名的兩倍,稅後淨利五百二十九億日圓(約合新台幣 一百五十億元),高於台灣股王宏達電,市值高達一兆二千萬日圓(約合新台幣三千四百億元),更驚人的是,西科姆還創下連續三十七年營收成長的紀錄,連聞名 全球的豐田汽車也無法達到此一卓越成績。

在日本,西科姆就是「安全」與「安心」的代名詞,從保全起家,飯田亮卻不斷顛覆人們對保全既有的觀念,將觸角深入產險、在家教育、情報通訊、醫療產業,甚至經營醫院,「任何跟安全有關,我都想參與,」在東京原宿的總部大樓裡,飯田亮接受《商業周刊》專訪時,即使已退出經營的第一線,談起事業目標,依舊是雄心萬丈。

飯田亮渴求創新的欲望,從四十五年前創業那一刻就開始展現,他笑說,當他想開設保全公司時,日本根本沒有人視保全為一項事業,因為「安全跟空氣一樣,都是免費的。」

飯田亮原本在家裡自營的酒類批發生意幫忙,但安穩的工作,無法滿足飯田亮。在一次意外機會,得知歐洲有保全業,但日本沒有時,他當下決定從事保全,「我最中意的就是日本沒有這種行業。」

接下奧運選手村保全 熬過草創期,營收呈倍數成長

為了從事保全,飯田亮在家裡掀起革命,父親甚至威脅要斷絕父子關係,但一心創業的飯田亮不為所動。儘管未獲父親援助,一九六二年七月,靠著借貸與友人投資,飯田亮集資四百萬日圓,創立西科姆的前身──日本警備保障公司。因為資金困窘,就租了一間頂樓加蓋的小辦公室,只有七坪大,「手伸起來就可以摸到天花板,」飯田亮笑著回憶。
但創業初期最大的困難不在資金,而是向客戶解釋「保全」是什麼,飯田亮笑說,當時維護企業安全,是由員工排班留守,就像日本武士守護自家城堡,怎麼可能交給外人。

營運第一年,費盡九牛二虎之力,也只拉到一家旅行業,年底結帳時,飯田亮算盤一撥,營收七萬五千日圓,還不夠付員工薪水。

即使環境如此艱難,他卻未曾想過回頭,「我不喜歡往後看,即便是懸崖我也要跨出去。」

在 業績不佳時,飯田亮咬牙苦撐,更努力建立客戶的信任感,因為他了解,保全賣的是安全,更需要贏得客戶的信任,才可能放心將身家安全交付。因此他從零累積實 力,對工作現場的員工嚴格要求,即便是小錯,他也會以嚴厲的態度懲罰,曾有員工在泳池旁執勤,卻脫下鞋子塗香港腳藥,結果慘遭解職。

默 默培養實力,創業兩年後,時來運轉。一九六四年,東京舉辦奧運會,飯田亮接下選手村的保全業務,一口氣將原本十幾人的公司,擴充到一百多人,當時,他也曾 陷入苦惱,奧運結束後,這些員工該如何安排?但因為奧運讓公司一炮而紅,包括SOGO百貨在內的大企業,紛紛雇用保全,兩年內,營業額成長一倍。 熬過草創期的苦日子,公司邁入每年倍數成長的階段,喜歡挑戰困難、追求創新的飯田亮,卻又開始擘畫另一項大戰略。

飯田亮決定採用機器做系統保全,這等於是推翻過去的人力保全,而且機器不賣斷,採用租賃收取服務費的經營模式,這在日本,甚至是全球保全業,都是一大創新。

決定改用機器保全,是因為東京奧運讓他警覺,保全相當倚賴人力,隨著公司持續成長,雇用人數也將日益龐大,未來甚至可能要雇用二十萬人以上,光是考量人事成本,就足以讓公司倒掉。

首創機器保全出租 逮住槍擊要犯,業務成長近百倍

決定租賃機器而不賣斷,則是回到保全服務的根本思考,雖然賣斷機器的商業模式較易經營,不僅客戶容易理解,對資金週轉也較有利,但飯田亮希望賣的是「安全」,不是「機器」,但這次的大膽創新,連保全專業人士都冷嘲熱諷。

當時,國外同業多採賣斷機器的經營模式,飯田亮卻在紐約召開的國際警備聯盟提出租賃的構想,歐洲同業立刻哄堂大笑,「客戶如果要機器,就只好賣機器,買賣不是自己決定就好,你啊,還太年輕,」當場成為眾人訕笑的目標。

「飛回日本的路上,我幾乎快失去自信,」飯田亮坦承,但越是沒有人試過,越能激發他挑戰與創新的信念。

一回國後,他把自己關在房間裡,拿出筆和計算機,不斷計算,從天亮一直算到天黑,等回過神時,計算紙的長度已經足足有六尺長,可以貼滿一整面牆,總算讓他找出適當的租金,可以讓公司在三年內回本。

不過,一開始提出機器保全的概念,果然還是他自己一頭熱,向銀行拉生意時,還曾被趕出去,第一年成交件數只有十三件,公司九成業務還是必須仰賴人力保全。

一 如東京奧運,當事先做好萬全準備,一般人口中所謂的「幸運」就會神奇的降臨。一所學校的西科姆警報器發出異常訊號,公司警衛比警察先抵達現場,逮住了一名 竊賊,竟是背負兩條人命的槍擊要犯,結果媒體紛紛以「發現刑案的新武器」報導,機器保全快速竄紅,委任件數在五年內上升到一千件,成長近百倍。

但為了讓自己永不回頭,飯田亮決定「斷了自己後路」。
全面改換機器保全 抓住連接家庭的最後一哩

一九七○年,當時西科姆人力保全的契約是四千件,是機器保全的四倍,飯田亮卻宣布「我們要結束巡邏保全,改換機器保全」。當時公司幹部全力反對,但是飯田亮卻認為「維持現狀的結果就只有衰退」。

在反對聲浪中,飯田亮力排眾議,「 如果全部人都反對的話,我更要結束人力保全,做跟大家想做的事一樣,公司就不會成長。」

全面推動機器保全的代價慘烈,一年內有三成的客戶解約,但飯田亮不氣餒,在接下來的四年中,每天只要遇到公司的人,飯田亮就不停向他們「傳教」,逐漸的,客戶開始回籠,員工也開始接受。

推動機器保全成為西科姆最重要的轉捩點,從人力監控到電腦通訊網路遠距監視,讓西科姆服務不再侷限於時間和空間。更重要的是,抓住連接家庭的「最後一哩」,建立系統化平台,加掛各種服務,讓西科姆不只從事保全,而是更廣義的安全產業。

過去,西科姆連接家庭的迴路,每天開關操作只需用到三十秒,若無異常狀況,這條迴路上的八萬六千三百七十秒都處於閒置狀態,很浪費。但要怎麼利用?飯田亮心想,何不從醫療開始,因為生活中最大的不安,就來自健康,而這個想法,竟出自病床上的飯田亮。

一九九三年,飯田亮因腦血栓住院兩週,本是攸關生命的兇險之事,他卻在病榻發想新事業,他發現封閉的醫療體系已顯得蹣跚老舊,不僅病患的權利不受重視,醫療體系彼此間的資訊交流效率也很差。

病榻上發想新事業 從保全延伸到醫療安全服務

「我 們非常適合從事醫療,」飯田亮說。醫療除了專業外,就是訊息的傳遞,西科姆可以利用已經建好的網絡,將小醫院照射的X光片,傳送到大醫院做更正確的解讀, 也可以派駐護士從事在家醫療,甚至是聯絡藥劑師開設處方箋,送達病患家中,讓病患也能在家接受治療,而西科姆則扮演醫院、家庭和藥劑師之間的訊息串聯者, 後來甚至還接手經營一家經營不善的醫院。



但是企業經營醫院的想法,卻引來體制內的醫生反彈,「就像自體被入侵一樣」。推動醫療服務十餘年來,儘管還是有人反對,支持的聲浪卻逐漸增加,飯田亮笑 說,現在參加醫療體系聚會時,常有醫生跑來感謝他讓封閉的醫療體系變得比較開放。而醫療收入也成為西科姆的第二大營收項目,占六%。

從保全跨入醫療,表面上毫無關連,但飯田亮都是以提供「安全」為服務創新的出發點,結果讓安全服務幾乎無所不在,施展的空間變大了。
不戀棧高位 比平均早二十年,四十二歲辭社長職

西科姆研究所所長杉井清昌回憶,創新就像是飯田亮的DNA,他隨時都在思考創新,但光是一個人追求創新還不夠,他要讓這個文化生根在組織裡,為了保持組織活力,飯田亮積極導入外來文化,讓組織感到壓力。他相信,「混血的組織比純血組織來得強」。

而在人的管理上,為了讓年輕人勇於嘗試,他樂於賦予年輕人重任,即便失敗,只要能有效衝撞組織,帶動活力,就算達到目標。 總經理木村昌平說,進公司第二年,他才二十四歲,就被派去管理一個縣的保全業務,當時飯田亮對他說,「無論成敗,我在乎的是你會不會成長。」飯田亮主張,不要用犯錯扣分的方式來降低錯誤,而應該用加分法,以杜絕大家「多做多錯,少做少錯」的茍且觀念。

為 了不讓公司繼續依賴他,也怕自己的腦袋不夠新,他又做出驚人之舉,不惜革自己的命,早早就退下第一線。「要由早一步知道變化的人,擔任領導人才行」,他選 擇在四十二歲辭去社長,轉任會長(董事長),比一般日本企業早了二十年。六十四歲那年又從會長,退位為最高顧問,不干預公司決策,只從旁協助,比其他人又 早了十年。

望著窗外,飯田亮說,我現在的時間都用來思考西科姆的下一步,唯有新事業,才會讓我覺得有魅力,他笑說「或許是對這種魅力上癮吧!」這位七十三歲高齡,不停歇的創新者,永遠在摸索前進的道路。

飯田亮 出生:1933年
學歷:學習院大學經濟系
現職:西科姆(Secom)最高顧問
座右銘:我不喜歡往後看,即便是懸崖我也要跨出去



【新春インタビュー】セコム取締役最高顧問 飯田亮氏

企業家は社会の品質向上に役立つ事業に命を賭けよ

[2008-01-16 10:51:55]
●企業家は社会の品質向上に役立つ事業に命を賭けよ

●セコム取締役最高顧問 飯田 亮

首相交代、与野党大連立構想の失敗など混迷を極める日本。産業界も再編や合従連衡など、大小問わず生き残り策にしのぎを削っている。そしてベンチャーには 未だ寒風が吹きすさぶ。こうした今、企業家は、そして経営者はどうあるべきか。日本のベンチャーの雄として誉れ高い、セコム創業者の飯田亮取締役最高顧問 は、その著書「正しさを貫く」で、経営者のあり方について説いている。自らの体験からにじみでるその教えは、混迷の現代を生き抜く企業家のバイブルといえ る。飯田最高顧問が企業家の正しい道について熱く語る。 (聞き手は本誌編集長 徳永卓三)

世の中に役に立たないことで儲けても意味がない

問 最近、「正しさを貫く?私の考える仕事と経営」を上梓されました。その中で、会社の原点は理念が一番大切だということを言われておりますね。

飯田 何しろ卑しいことをしてはダメ。うまくやろうと考えてはダメです。不器用でいい。

問 そうはいっても儲けないと何もできないと思いがちですが。

飯田 否、社員には「いい仕事をやろうよ」と言えばいい。

問 不器用でもコツコツと世の中のためになることにまい進せよということですね。書籍の中でお父さんから「まともな商売をしろ」と言われたと書かれていますね。

飯田 仕事で儲かるとか儲からないという話が今出ましたけれど、そんな風に考えてはいけない。何のために儲けるというのをよく考えないと。仕事をして世の 中をよくする方向に持っていけるということで儲けるならいいが、あまり役に立たないけれど悪くもないということなら儲けても仕方がない。ましてや悪いこと で儲けては絶対にいけない。

問 今、若い人たちがどういう事業をやろうかと迷うようですが、どういう仕事がいいのでしょうか。今、飯田さんが(創業時の)29歳に戻られたとしたら、安心安全産業以外でどういうビジネスを考えますか。事業を考えるときどういう心構えが必要なのでしょう。

飯田 社会にとって品質のいい会社であるかどうかが大切です。今、日本の品質はあまり高くない。例えば給食費を払わないなど、今の日本は行儀の悪い社会で あり、品質が悪い。病院でもどこでもクレーマーがすごい。品質がよくなる方向へ導くような仕事をするべきですね。その会社があって行動するだけで、社会の 品質がそれほど際立ってよくならなくても、少しずついい方向へ向いていく、それで利益を得るということをやるべきです。「儲からなければ」と考えるのは間 違い。

問 社会にとって役に立ち、社会の品質を向上させる事業で儲けてこそ、企業家であるということですね。

飯田 儲けることを優先したら長続きしないですからね。

●営業にコツなし靴をすり減らして人に会うのみ

問 書籍にありましたが「靴の減り方と人間の魅力は比例する」とはいい言葉ですね。

飯田 営業とは人に会うこと。人に会えば会うほど教訓を受けるし、その努力が実っていく。

問 創業の頃は飯田さんもそうだったのでしょうか。

飯田 大学出てからずっとそうです。私は営業マンだからね。

問 営業のコツというのは何でしょうか。

飯田 コツはありません。歩いてなるべく多くの人に会うだけ。それ以外にはない。怠けていてうまくいくということは絶対にない。

問 頭で考えてうまくいくわけではないのですね。

飯田 なにしろ会うことです。会って自分の商品のよさか、自分の人間性を売るしかない。飯田亮という人間を売るわけですから、スランプに陥ると、すごく自 己嫌悪に陥る。そういう意味では営業の人間の落ち込みは深い。でもそれを何回か繰り返さないとブレイクスルーできないね。

問 書籍の中でも「何でスランプになったか今でもわからない」と書かれていますが。

飯田 スランプの理由がわかるなら処方箋が書ける。スランプとは壁だから、壁をよじ登るようにして立ち向かっていくしかない。強引にスランプを乗り越えないと。何がスランプかなんてわからないです。女性になぜ振られたかなんてわからないですからね(笑)。

問 スランプのときの過ごし方はあるのでしょうか。

飯田 通常よりもよく働いて、よく仕事をすることです。それ以外抜けられない。

問 野球の選手がスランプに陥ったときはよく練習するのと同じですね。

飯田 そうです。だからよく言うじゃないか。一本のヒットが何よりの良薬だと。

問 ひとつの商品が売れることが営業のスランプ脱出になるわけですね。

飯田 お客様に買っていただくこと。それが何よりの良薬だね。

この続きは、企業家倶楽部2008年1・2月合併号でもご覧いただけます!








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