2007年11月7日 星期三

河上肇 Kawakami Hajime

前幾天讀 Kawakami Hajime 記一些難忘的人物 (包括如實寫他1941年從東京転居京都時的一位老友之絕交)
都還可以感受這真人真強烈個性
他的政經作品半世紀多多之前就有翻譯呢 (1920年,又分别以《贫乏论》和《救贫丛谈》两种中译本,在中国出版。)



河上肇(1879年——1946年)是日本著名的马克思主义经济学家、哲学家。河上肇的著作,不仅在日本,对中国的革命者也曾产生巨大影响。


另外 gossip:".....一九四三年,李登輝赴日本留學,就讀于日本共產主義思潮最盛行的京都帝國大學。京都帝國大學經濟部有一位在日本經濟學術界非常出名的教授河上肇,經常宣揚共產主義左傾思想,因而孕育了許多日本左派青年。

戰爭時期,日本當局查禁社會主義思潮,壓制共產黨組織活動,可謂不遺餘力。京都帝大的河上肇教授因經常宣揚社會主義思想,引起日本政府當局極度不滿。河上 肇教授于一九三二年間,被日本警察逮捕,日本共產黨組織也在一九三三年前後全部覆滅。雖然河上肇被捕入獄,共產黨組織也全部遭政府當局破獲,但是,他的學 生遍及京都帝大和日本社會各個階層,日本學術圈左派勢力終難完全禁絕。李登輝到京都帝大就讀時,河上肇教授雖已被捕入獄,但是受河上肇影響的青年知識分子 無遠弗屆。在日本知識界,因此殘留了不少早先他所傳播的共產主義思潮。大學課堂上,師生之間盛行議論社會主義理論,盛況歷久不墜。........ 在《台灣的主張》一書末尾,李登輝特意將“日本共產黨台灣民族支部成立”列入年表的內容中(一九二八年項下)。身為台灣的“總統”、台灣國民黨的黨主席,李登輝何以不將國民黨重要節日放在年表當中,反而會將“日本共產黨民族支部”的成立納入他年表大事記中?......"




Wikipedia 英日簡短說明

Kawakami Hajime (Japanese: 河上肇), October 20, 1879 - January 30, 1946, was a Japanese Marxist economist of the Taishō and early Shōwa periods.

Born in Yamaguchi, he graduated from Tokyo University. After writing for Yomiuri shimbun, he earned an economics professorship in Kyoto Imperial University. Increasingly inclined toward Marxism, in 1928, he took part in the March 15 incident, and was expelled from the university as a subversive. The following year, he joined the formation of a political party Shinrōtō. Kawakami went on to publish a Marxist-oriented economics journal, Studies of Social Problems. After joining the then-outlawed Communist Party of Japan, he was arrested in 1933 and sent to prison. Following his release in 1937, he translated Das Kapital from German into Japanese. Kawakami spent the remainder of his life writing essays, novels, poetry, and the autobiography Jijoden.

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河上 肇( Kawakami Hajime かわかみ はじめ1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学マルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー小説『貧乏物語』で知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。

目次


河上肇 経歴

山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩の家に生まれる。山口尋常中学校山口高等学校文科を卒業し、東京帝国大学法学部政治科に入学。足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902年(明治35)大学を卒業。その後農科大学講師などになり、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。

1908年(明治41)、京都帝国大学の講師となって以後は研究生活を送る。1913年大正2)から15年にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。帰国後、教授。1916年(大正4)から新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年出版。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、全体の主張は「金持ちの搾取論」で、革命煽動の筆力は抜きん出ていた。

その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進める。1921年(大正10)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文はのちに虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1922年、労農派の櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した。河上は批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。1928年(昭和3)、京都帝大を辞職し、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加。1930年(昭和5)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。

1932年日本共産党の地下運動に入る。1933年中野区で検挙され、治安維持法違反で小菅監獄に収監される。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。1937年(昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。第二次世界大戦中は軍国主義に対して何ら抵抗せずに事態を傍観していた。終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に逝去。1947年、『自叙伝』が刊行される。

河上肇 主要著作

  • 岩波書店から『河上肇全集』が出版されている。

河上肇 外部リンク


枕上浮雲 等等


Category:日本の経済学者 Category:山口県出身の人物 Category:日本共産党の人物 Category:1879年生 Category:1946年没




所在地=京都市左京区 鹿ヶ谷 ( ししがだに ) 御所ノ段町30 本山 法然院 ( ほう
ねんいん ) 墓地/墓前祭・河上肇記念会総会=毎年10月、法然院で。 たどりつきふり
かへりみればやまかはをこえてはこえてきつるものかな. これは、河上がつかまれば死刑 ...








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