2017年7月16日 星期日

台湾「日本語世代」代表格、歌人の蔡焜燦 (1927-2017; 旭日双光章、『新装版 台湾人と日本精神』),陳文敏( 港大學者論政改 文: 全希西)

前總統李登輝摯友、台灣李登輝之友會蔡焜燦今(17)日上午5時病逝家中,享壽91歲蔡焜燦兒子表示,父親交代後事不發訃聞;等辦完喪禮後,再登報向外界懇謝。蔡焜燦出生於1927年1月9日,台中州大甲郡清水街(現台中市清水…
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台湾「日本語世代」代表格、歌人の蔡焜燦氏死去
蔡氏は1927年、日本統治下の台湾で生まれた。日本の教育を受けて育った「日本語世代」の代表的存在で、自ら「愛日家」を名乗るほど日本への思いが深かっ ...

教授軍師 港大學者論政改

2014-5-15 6:45:06
▶這段時間,似乎是一個學者方案的井噴期
▶「我們有責任去提出一個溫和但又有原則、務實的方案」
「那時候我們整天都在討論香港的前途,」香港大學法律學院助理教授張達明說。他口中的「那時候」,是1984年,中國和英國就香港前途問題,簽署《中英聯合聲明》。所謂的「我們」,包括了陳弘毅、陳文敏、戴耀廷和他自己—現時全是香港大學法律學院的教授。
30年前,留學英國回港的陳文敏,剛到香港大學法律學院執教,是首批華人老師之一,當時的學生,有戴耀廷、張達明、袁國強和劉進圖。
30年後,陳文敏已升任法律學院院長,他的學生,亦各有出路︰戴耀廷發起「佔領中環」;張達明為法學院助理教授,繼續就政改出謀獻策;袁國強步入政府,任 律政司司長,就多個民間建議,提出官方詮釋。30年後師徒再次針對香港前途問題,圍繞當前廣為爭議的《2017年行政長官及2016年立法會選舉產生辦 法》(2017年政改方案)各抒己見。位置已經改變的他們,各自扮演不同的角色。其中已成為港大法學院教授的幾位最近紛紛拋出自己的政改方案,以學者身份 推動政改達成共識。
距離政改第一階段諮詢期結束(5月3日)還有一個月,學者方案進入井噴期—香港大學法學院的教授軍師頻現報端。港大法律學院院長陳文敏參與的「香港 2020」,於3月15日提出方案,其後,港大法學院教授戴大維(MichaelDavis)及楊艾文(SimonYueng)緊接發力提出包含公民推薦 方案。壓軸的是張達明聯早在去年12月政改諮詢之初,泛民主派各政黨堅持由一人一票提名產生候選人的「公民提名」方案,但北京中央人民政府代表在「兩會」 期間,以及3月中,北大法學院教授饒戈平來港,接連對「公民提名」表示有違《基本法》後,各界開始轉向討論折衷方案。而張達明的方案,亦參考《基本法》提 出不削弱提名委員會權力的方案︰「由選民先推薦候選人,獲得8萬名選民推薦,再交予提名委員會選擇,被稱為『公民推薦』方案。」同18位學者於4月3日, 提出主張「公民推薦」的聯署方案。
「其實政治不是我的強項,這是我第一次以聯署的方式參與到政改的討論中來」,張達明說,在港大法學院的職員頁面上,他的研究領域一欄顯示的是「民事和刑事 訴訟」。「你看,前段時間兩邊(中央政府和泛民主派)談了這麼久,結果越走越遠,兩邊都在走向極端,在這樣的情況下,學者有責任去提出一個溫和但又有原 則、務實的方案。」張達明的盟友,學者方案的發起人香港教育學院助理教授方志恒指:「現在各方互信太不足,泛民和建制,香港和北京,太多攻擊。學者出來說 話,可以少一些不必要的爭拗,這是我們的先天優勢。」方志恒此次找了包括前立法局主席黃宏發在內的18位來自不同高校的學者聯署,支持「公民推薦」方案。
早前曾勸喻各方回歸政治現實需要的政務司司長林鄭月娥,多次對通過政改方案公開表示悲觀,更形容政改最終可能是「鏡中花水中月」,及至看到這個由學者建議的方案,罕有地公開肯定:「18學者的方案,回歸基本法的框架。」
學者方案放棄了泛民一直高舉的「公民提名」,被激進派譏笑為「向北京妥協」,但張達明重申︰「符合中央官員現在提出來的框架,符合基本法,接受提委會的實 質提名權」。張達明解釋道︰「溫和的姿態學者做起來比較方便,因為沒有了政黨的包袱」。他不說「妥協」,說「溫和」。「我們也知道方案一出來就會被人罵, 但是我們沒選票,罵我們對想要選票的人沒好處,所以罵得不會太離譜,」他笑著說,他們也會去接觸泛民跟建制兩邊的政黨,「溫和派和開明派的反應都是正面 的,但是現在他們並不方便出來支持你,要等中央先釋放善意,他們才好公開表態。」
「學者往往比較務實。」香港中文大學政治和行政學系副教授馬嶽分析道︰「他們會去斟酌基本法框架下能行通的東西,因為他們知道不守基本法第45條(行政長官選舉辦法)是很危險的,那《基本法》的其他條例是不是也不用守了?」
公民黨黨魁梁家傑亦歡迎學者多提出方案:「學者們的各方案表現了香港民間的最大誠意,中央的誠意在哪裡呢?學者的方案是中央誠意的探測器,你再不釋放善意,香港民間會忍無可忍。」
張達明找來前立法局主席黃宏發聯署。他的老師兼上司、港大法律學院院長陳文敏已於3月聯同前政務司司長陳方安生發表他們的政改方案。陳方安生更於4月7日 訪問美國,在白宮期間,獲得美國副總統拜登「順道會晤」,陳述香港的政改發展。《紐約時報》同日發表「保障香港自治」的社論,翌日,內地《環球時報》社論 則斥責陳方安生「告洋狀」。
吸引眼球,同時亦招來非議,陳方安生的盟友陳文敏認為,學者不同於政客,由於學者有中立身份,故能無畏地力陳己見。「香港的學術自由有保障,積極地參與香 港的歷史也是歷史使命,」陳文敏說,上個月,他以香港2020的成員的身份,拋出政改方案建議,都旨在增加「提名委員會」的選民基礎,繞過了中央官員公開 反對的「公民提名」,又提高了選民基礎的比例;既按中央和香港政府呼籲「圍繞《基本法》作討論,也回應了民主派對提名委員會民主化的訴求,連全國港澳研究 會成員的學者亦於方案發表後兩日,向本刊讚歎為高明。」
作為香港大學法律學院的掌舵人,陳文敏早於30年前,已活躍於香港政法討論,他說︰「80年代後,學者在香港的政制進程中一直扮演重要角色,香港比較看重 知識經濟的,而在轉型的時候社會特別需要知識和論述,在這個階段學者能夠發揮的作用就會大很多,特別是,香港還這麼小。」
陳文敏鼓勵學生以其法律知識服務香港,門生當中既有執業律師,又有老師,更有新聞從業員,而加入政府的亦不乏其人。
律政司司長袁國強亦是陳文敏的門生,他於2007年任香港大律師公會主席,2008年被委任為廣東省政協委員,是回歸後首任香港律師公會主席接受中共官方 職位。其後於2012年獲委任為律政司司長。於政改一役,袁國強亦擔大旗出任「政改諮詢專責小組」成員,於今年1月底發表署名文章,公開否定「公民提 名」。其師陳文敏,公開批評學生「缺乏政治智慧」︰「說話要看你的角色和時機⋯⋯政改就是要寄予希望於中間的這批人,政府牽頭做這件事情,如果你太早自己 表達立場,那你就會很難將兩邊再拉到一起,要求同存異。」
而香港政府主導政改諮詢的官員、政務司司長林鄭月娥於學者的公民推薦方案出場後卻隨即形容,方案並無偏離基本法,並表示已相約學者交流意見。
【總之】兩邊分裂嚴重,沒有政治包袱並標榜中立的學者出手填補溫和的中間地帶,學術自由與媒體話語權亦幫其加分。
文:全希西
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『新装版 台湾人と日本精神』蔡焜燦著 かつての祖国を叱咤激励



『新装版 台湾人と日本精神』蔡焜燦著、小学館


 平成13年に小学館文庫から刊行された『台湾人と日本精神』は毎年順調に売れ続け、14刷8万3000部に達するロングセラーとなっている。読者から「単行本で手元に置きたい」といった要望が版元に多く寄せられたそうで、戦後70年を迎えたのを機に新装版として4月に発売された。編集担当の鈴木亮介さんは「先の大戦の経験者や歴史に興味を持つ年配の方に読まれており、新装版1万部も堅調な売れ行き」と話す。文庫版も近く増刷となる予定だ。

 昭和2年生まれの著者は司馬遼太郎氏が『台湾紀行』執筆に向けた取材で訪台した際に案内役を務め、同作に「老台北」として登場することでも知られる。親日家を超えた「愛日家」を自任し、かつての祖国を愛する元日本人だからこそ、現代日本人の精神的荒廃に苦言も呈する。台湾では「日本精神(リップンチェンシン)」が勤勉で正直、約束を守るといった行いを指す言葉として息づいているのだ。50年に及んだ日本の統治が台湾の近代化をもたらし、その精神的遺産が台湾発展の基盤となったと説く著者は、台湾を知ることは日本を知ることにつながると主張し、「日本人よ胸を張りなさい」と訴える。(小学館・1600円+税)

 溝上健良
 



【若者たちよ 李登輝・台湾前総統】番外編 “老台北”蔡焜燦氏
フジサンケイ ビジネスアイ
第5回「日台文化交流 青少年スカラシップ」(フジサンケイビジネスアイ、産 経新聞社主催、台湾行政院新聞局共催)で6日間 の台湾研修旅行を贈られた若者17人は、李登輝 前総統以外にも多くの日本語世代の台湾人から話 を聞いた。なかでも司馬遼太郎氏の著書「台湾紀 行」 ...
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叙勲受章台湾人男性の「日本という国を愛して」に日本人が感動
2014.05.15 11:00
4月29日、春の叙勲が発表され、4104人の日本人受章者とともに外国籍55人の受章が決定した。その中に「蔡焜燦(さい・こんさん)」の名前 があったことに、日台両国で大きな歓声が沸き起こった。台北市にある蔡氏の自宅には多くの花や祝電が届き、お祝いを伝える関係者がひっきりなしに訪れてい る。
 旭日双光章に輝いた蔡焜燦氏は、「まだ伝達を受けていないので、喜びのコメントは正式に受章してからにしたい」と穏やかに語るが、自宅に殺到する祝電や贈花は、蔡氏の叙勲を我が事のように喜ぶ人が日台に数多くいることを物語る。
 自らを親日家ならぬ「愛日家」と称する蔡氏は、現在87歳。日本の短歌を愛好する「台湾歌壇」の代表として日本文化を広く紹介してきた功績が評価され、今回の叙勲となった。
 それ以上に蔡氏の「愛日家」を象徴するエピソードは、作家・司馬遼太郎との交流である。蔡氏が日本で知られるようになったきっかけは、司馬が手が けた『台湾紀行』(『街道をゆく』シリーズの第40巻)だった。同作品の取材のために台湾を訪れた司馬の案内役を務めたのが蔡氏であり、作中に蔡氏は「老 台北(ラオタイペイ)」として登場する。
 司馬と「老台北」の、軽快で知的な掛け合いは多くの読者を魅了した。蔡氏の著書『台湾人と日本精神』(小学館文庫)では、台湾を訪れた司馬に、日本では珍しいヘチマ料理を振る舞った時のやりとりが記されている。
 司馬が「痰一斗(たんいっと)」と詠むと、蔡氏はすかさず「ヘチマの水も間に合わず」と返す。続いて司馬の「ヘチマ咲いて」には、「痰のつまりし仏かな」。そして「おとといの」には、「ヘチマの水も取らざりき」──。
 いずれもヘチマを題材にした正岡子規の俳句だが、司馬に同行していた新聞記者は、蔡氏の日本文化に対する造詣の深さに舌を巻いた。司馬はそんな 「老台北」を見て、台湾の“日本語族”が、同じ歴史を共有する“日本人”であることを実感し、蔡氏を「博覧強記の人」「日本語の語感が確かな人」と評して いる。



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蔡 焜燦(さい こんさん)は、台湾人実業家2007年現在、半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長知日派(当人は「愛日家」と自称)として知られる。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく-台湾紀行』では案内役として老 台北(ラオ・タイペイ)の愛称で登場する。

経歴

出生

1927年(昭和2年)、日本統治時代台湾中部、台中州大甲郡清水街に生まれる。
台湾は1895年明治28年)、日清戦争の結果、清国から日本へ割譲されている。この際、日本側は台湾の住民に2年間の国籍選択猶予を与え、清国籍を選ぶ者は自由に大陸に引き揚げることが認められていた。当時16歳だった蔡焜燦の父はこの時、清国籍を選択し祖先の地であった福建省に渡った。しかし当時の中国の腐敗した社会を熟知した叔父に台湾への帰還を勧められ、「日本人」として台湾へ舞い戻っている。こうして父子ともに日本人として生きていく道が決定した。

少年時代

清水公学校[1]に入学。清水公学校では1935年(昭和10年)当時、内地の小学校にもそれほど普及していなかった校内有線放送による視聴覚学習を実施していた。視聴覚学習では、童謡詩吟ラジオドラマ神話歴史などのプログラムのレコードが流された。また、高等科では16ミリフィルムによる映画の上映設備が置かれ、映像による歴史教育や時事ニュースのヒアリングなど、当時としては先進的な教育が行われていた。
1935年(昭和10年)、台湾中北部に掛けて大地震が襲った。この時、昭和天皇から遣わされた入江相政侍従長が罹災地の倒壊した民家を回り、見舞い金を下賜した。罹災した蔡の実家にも見舞い金が下賜され、この出来事によって少年だった蔡に皇室と日本への親近感が芽生えたといわれる。

戦時下

1937年(昭和12年)、日中戦争(支那事変)が勃発。当時、公学校5年生の蔡は祖国日本への愛国心と犠牲的精神に燃えていた。
公学校を卒業後、台中州立彰化商業学校に入学。彰化商業学校では、当時の日本が南方進出を企図していた背景から、英語北京語マレー語が必須科目となっていた。1943年(昭和18年)には、戦局の悪化から体育教師が召集され、体育が得意であった蔡は、毎朝行われていた体操の指揮を一年半の間担当することになった。
1941年(昭和16年)、太平洋戦争が開戦する。翌1942年(昭和17年)、戦線の拡大に伴って台湾人にも志願兵制度が適用されるようになった。志願者が殺到する中、蔡も少年兵募集に応募し、彰化商業学校卒業後の1945年(昭和20年)1月奈良市高畑の岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現・奈良教育大学)に入隊した。1945年(昭和20年)1月4日、入隊のため基隆港から輸送船「吉備津丸」に乗り内地に向かう。後に、当時京都帝国大学の学生で、学徒出陣により徴兵された李登輝元総統も同じ日に同じ輸送船で内地に向かっていたことを知る。岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊では航空機の整備などの専門分野ではなく、一般教科に多くの時間が割かれたという。
同年8月15日、日本は敗戦を迎える。同年12月連合国軍の命令で台湾への帰還が命ぜられ、翌年の1946年(昭和21年)1月1日駆逐艦夏月台北に到着した。台湾を接収に来ていた中華民国兵士の服装、態度がみすぼらしく不潔で、規律正しい日本軍とは似ても似つかぬ姿だったことに愕然としたという。
この後、台湾では中華民国兵士や警察による略奪暴行外省人の役人による不正が頻発する。また、国民党の官吏は大量の物資を接収し、上海の国際市場で競売にかけたため、台湾全土を強度のインフレが襲うことになる。それは後に二・二八事件へと発展することになる。

体育教師時代

戦後、台湾に戻り体育教師として再出発することとなる。体育教師を選んだ理由として、もとより体育を得意とし、学生時代からの夢であったこと、さらに戦後、公用語となった北京語を話せなくてもやっていけると考えたからであった。しかし、戦後、台湾の教育現場は収賄や不正が蔓延していた。ある日、卒業生に対して「心に太陽を持て」とメッセージを送ったところ、外省人の教師に「心に日章旗を持て」と子供たちに教えていると密告された。その後、難を逃れたものの、教師を辞職することを決意する。

サラリーマン時代

教師を辞職後、様々な事業を起こすが、人間関係などで悩み経営から手を引くことになる。そして船舶会社代理店ジャパンラインの営業部長としてサラリーマンに戻ることとなる。1968年(昭和43年)10月、会社の業務出張で戦後初めて日本の土を踏んだ。この時、祖国に殉じた英霊への鎮魂をと靖国神社参拝を果たしている。その後、来日するたびに靖国神社へ必ず参拝を行っている。

実業界へ

サラリーマンとして再出発したが、その後再び脱サラをし、起業家として辣腕を発揮することになる。ウナギの養殖をはじめ、セイコー電子台湾法人会長など様々な事業に携わった。現在は、台湾李登輝民主協会の会長を務める。

著書・参考文献

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