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【京都之美】《古代醍醐寺: 將寶藏和傳説帶入未來的寺廟》
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| 醍醐寺 | |
|---|---|
金堂(国宝) | |
| 所在地 | 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22 |
| 位置 | 北緯34度57分5.4秒 東経135度49分18.4秒座標: 北緯34度57分5.4秒 東経135度49分18.4秒 |
| 山号 | 深雪山 笠取山 |
| 宗派 | 真言宗醍醐派 |
| 寺格 | 総本山 |
| 本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
| 創建年 | 貞観16年(874年) |
| 開山 | 聖宝 |
| 中興 | 義演 |
| 札所等 | 西国三十三所第11番(上醍醐) 真言宗十八本山第12番 近畿三十六不動尊霊場第23番(上醍醐) 西国薬師四十九霊場第39番 役行者霊蹟札所 神仏霊場巡拝の道第126番(京都第46番) |
| 文化財 | 金堂、五重塔、薬師堂ほか(国宝) 清滝宮本殿、如意輪堂、開山堂ほか(重要文化財) 三宝院庭園(特別史跡・特別名勝) 世界遺産 |
| 公式サイト | 醍醐寺 |
| 法人番号 | 6130005002163 |
醍醐寺(だいごじ[1])は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山の寺院[1]。山号は深雪山ないし笠取山[1]。本尊は薬師如来[2]。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵している[3]。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている[1]。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている[1][4]。
歴史
平安時代
平安時代初期の貞観16年(874年)に空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が、自ら刻んだ准胝観音像ならびに如意輪観音像を上醍醐に祀って開創した[5][6]。
延喜7年(907年)、醍醐天皇の発願により醍醐寺に薬師堂が建立され、薬師三尊が奉安された[5]。その後、薬師三尊の奉安からまもなくして鎮護国家のために五大堂が建立される[5][6]とともに五大明王が奉じられた[6]。
延長4年(926年)に下醍醐に釈迦堂(金堂)が建立され[5]、同時期に笠取山全体を寺院に改装する計画が立てられた[5]。
その改装事業は醍醐天皇の崩御後も朱雀天皇や村上天皇に受け継がれ[5]、法華三昧堂が造設されるなどした[5]。
天暦5年(951年)には村上天皇や藤原穏子の下で五重塔(国宝)が建立されている[7][8]。
また、上記のような改装事業のほかにも伊勢国や尾張国、河内国などの荘園が勅旨田として醍醐寺に寄進され、経済的基盤も築かれた[7]。
上記のようにして醍醐寺は躍進を遂げた。
しかし、躍進はそう長くは続かず、藤原穏子が死去したことを境に醍醐寺の躍進は止まった。
それ以降、醍醐寺は現状の維持に徹することとした[7]。
また、醍醐寺は源氏の氏寺であったため、藤原穏子の死去と同時期に源氏が衰退したことも躍進が止まった原因の一つであると考えられている[7]。
院政
朝廷が院政を始めると、醍醐寺は朝廷に接近するようになり[7]、座主の座を皇族に譲ることを慣例とした[7]。
この判断は座主を中心に優秀な僧を輩出することに成功し、醍醐寺にとって転機となった[7]。
優秀な僧を輩出したことは醍醐寺の法流である小野流が発展したことに大きく寄与した[7]。
1084年に白河天皇の中宮であった藤原賢子が死去すると[9][10]、その死を悲しんだ白河天皇が山上に円光院を建て[7]、賢子の遺骨を納めた[7]。また、遺骨を納めるとともに金銅の両界曼荼羅を奉納した[7]。
白河天皇によって建立された円光院は広大な寺社領を有していたため、長い間醍醐寺の経済に影響を与え続けることとなった[7]。 」
南北朝時代
南北朝時代には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊座主や、足利義満から足利義教に至るまで室町幕府において黒衣の宰相といわれて重んじられた満済准后などを輩出している[6]。しかし、応仁の乱が勃発すると当寺も兵火に巻き込まれ被害を受けて下醍醐は荒廃してしまい、五重塔のみが残されるだけとなってしまった。特に応仁の乱の最中だった室町時代の文明元年(1469年)10月には、周辺集落であるご境内の村民たちが寺に納める年貢を半分にする半済を要求して暴動を起こした際には、武装した僧兵たちが弾圧を行い、同月10日(11月13日)には首謀者たちを呪殺する目的での大規模な護摩祈祷が行われるなど、人心の荒廃も進行していった[11]。
安土桃山時代
安土桃山時代に入り豊臣秀吉が中興の義演准后に帰依すると、秀吉は当寺で花見を行うこととし、境内整備の一環として秀吉によって三宝院が再興されるなどして伽藍が復興され始めた。こうして慶長3年(1598年)に醍醐の花見が盛大に行われた[6]。
続いて豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長5年(1600年)には秀吉の代から行われていた金堂(国宝)の移築工事が完成[12]、慶長10年(1605年)には西大門の再建[13]、慶長11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が次々と行われた。豊臣政権下での醍醐寺については、醍醐寺座主であった義演が著した『義演准后日記』に詳しい。
江戸時代
江戸時代には高演座主が山伏3千名を伴って二度にわたる大峯山入峰を行い、修験道の興隆を計った[6]。

明治時代
明治時代になると廃仏毀釈が行われて数多くの寺院が廃寺となり、寺宝が流失したりする中で、当寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けている[6]。
1930年(昭和5年)には実業家の山口玄洞によって観音堂を中心とする大伝法院の諸堂が建立されている[14]。
1935年(昭和10年)に霊宝館が開館している。1939年(昭和14年)8月、上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵と西国三十三所第11番札所の准胝堂が焼失するが、1968年(昭和43年)5月に准胝堂は再建された。
現代
1994年(平成6年)12月に世界遺産に登録されたが[6]、翌1995年(平成7年)1月に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、その影響で五重塔、金堂などの漆喰が剥がれている。1997年(平成9年)9月に真如三昧耶堂[注 1]が建立された[15]。
2008年(平成20年)8月24日に落雷による火災で上醍醐の准胝堂が再び全焼した。焼失した准胝堂にあった西国三十三所札所本尊は、現在下醍醐の観音堂に仮に安置されている。
伽藍

下醍醐と上醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩では1時間を要する。
下醍醐
本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がっている。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失と再建を繰り返しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像としては現存最古のものである。
- 金堂(国宝)
- 入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期の建立。豊臣秀吉の発願により紀伊国から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に秀頼の代になって落慶している。『紀伊名所図会』等によると、もともとは紀伊国有田郡湯浅(現・和歌山県有田郡湯浅町)の満願寺[注 2]本堂であった[12]。秀吉が紀州征伐を行った当時、湯浅一帯を支配していた白樫氏(紀伊守護畠山氏の家臣)が満願寺一帯を拠点にしており、その居城である白樫城(満願寺城)と共に焼き討ちされる予定であったが、醍醐寺座主であった義演が応仁の乱で大内氏に焼かれた醍醐寺金堂の再建をちょうど欲していたこともあり、満願寺の建築物を秀吉に差し出すことを条件にして焼き討ちが回避された経緯がある。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。組物が統一されておらず、正面が出三斗、側面と背面が平三斗という異例の意匠を持つのが特徴で、平三斗は創建当時のもの、正面の出三斗は鎌倉時代の補修の際に付け加えられたものと考えられている。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊・薬師如来坐像(重要文化財)と日光菩薩・月光菩薩と四天王像を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。そもそもの醍醐寺金堂の創建は延長4年(926年)で、当初は「釈迦堂」と呼ばれていた。永仁年間(1293年 - 1299年)と文明年間(1469年 - 1487年)の2度焼失している[12]。
- 五重塔(国宝)
- 平安時代後期の天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)にその前年に崩じた醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、承平7年(937年)の代明親王薨去などの影響で工事は停滞し、その弟にあたる朱雀天皇が引き継ぐも、発願の20年後となる村上天皇治世の天暦5年(951年)に完成した。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める[8]。屋根の逓減率が大きく[注 3]、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長い外見にはならない。創建以来修理を重ねたが、特に天正13年(1586年)の天正地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、豊臣秀吉の援助を受けて慶長3年(1598年)3月に修理が完成している。1950年(昭和25年)のジェーン台風でも被害を受け、1960年(昭和35年)に修理が完成した。京都府下最古の木造建造物であり、京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であると共に、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も現存する平安絵画として重要であり[8]、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。
- 清瀧宮本殿(重要文化財) - 永長2年(1097年)に上醍醐寺より分祀して創建。文明年間の兵火により焼失するが、永正14年(1517年)に再建された[16]。本殿の西側は塔頭・無量光院の跡地。
- 不動堂 - 堂前で柴燈護摩が焚かれる[17]。
- 真如三昧耶堂 - 真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するため醍醐寺により1997年(平成9年)に建立された[15]。金色の涅槃像を祀る。もとは朱雀天皇の御願による法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建されたものだが、享徳19年(1470年)に焼失している[18]。
- 祖師堂 - 向かって右に弘法大師(空海)、左に理源大師(聖宝)を祀る。慶長10年(1605年)9月に義演准后による建立[19]。
- 旧阿闍梨寮 - 1930年(昭和5年)に山口玄洞による建立[14]。現在は食事処として使われている。
- 旧伝法学院 - 1930年(昭和5年)に山口玄洞による建立[14]。
- 大伝法院 - 観音堂を中心とする一帯は大伝法院と呼ばれる。
- 西大門(仁王門)(京都府指定有形文化財) - 慶長10年(1605年)に豊臣秀頼により再建。仁王像(重要文化財)はもとは南大門に祀られていた像で、長承3年(1134年)に仏師の勢増と仁増によって造立された[13]。
- 三宝院 - 歴代座主が居住する本坊的な存在。永久3年(1115年)に醍醐寺第14世座主であった勝覚僧正により[20]金堂のすぐ西側に創建され、後に現在地に復興された。唐門と表書院は国宝。
- 理性院 - 塔頭。別格本山。
- 修証殿
- 庭園「憲深林苑」 - 池泉回遊式庭園。
- 桜馬場
- 霊宝館 - 1935年(昭和10年)に開館。2001年(平成13年)10月にリニューアルされた。7万5千点以上の国宝や重要文化財を含む約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵している。
- 本館
- 平成館
- 仏像棟
- 醍醐大しだれ桜 - 樹齢180年。
- 恩賜館 - 1930年(昭和5年)以降に昭和大礼で楽官休所として使われた建物を移築したもの。現在は食事処として使われている[21]。
- 報恩院 - 塔頭。もとは上醍醐にあった極楽坊で醍醐寺第35世座主憲深僧正が活動拠点とし、報恩院と院名を改めた。後宇多法皇の命で下醍醐に移転し、明治時代に現在地に移る[22]。
- 光台院 - 塔頭。
- 伝法学院
- 黒門
- 南門
- 総門
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