2023年9月4日 星期一

蔡坤霖(1930-2023) 日本政府頒發「雙光旭日章」2021 『......我們這個國家的勇氣』;台中中央俱樂部 (1925文化協會成員):張濬哲(大雅)、陳滿盈(和美)、賴火烈(員林)、林獻堂(霧峰)、林載釗(潭子)、林資彬(霧峰)、林糊(福興)、吳沛然(名間)、洪元煌(草屯)、楊濱嶽(梧棲)、陳炘(大甲)、杜清(大甲)、蔡年享(清水)、楊天斌(清水)、許金來(鹿港)、林少聰(霧峰)、林月汀(竹山)、林垂拱(太平)、楊路漢(梧棲)、莊垂勝(鹿港)

蔡焜霖前輩(1930-2023)離開我們了
蔡焜霖前輩 於2023年9月3日 晚上9時逝世。CNA中央社
【清水からきたこども~蔡焜霖さんと白色テロ】※中文のあと日本語あり、長文です。

9月21日。22年前的今天集集大地震發生了。30年前的今天廃除刑法一百條「100行動連盟」成立,下一年刑法一百條修正條文通過,43年間的台灣白色恐怖終於結束了。

もうすぐ9月というある日、13歳になる息子を連れて、新北市景美にある国家人権博物館「白色恐怖景美記念園区」にて白色テロのサバイバーである蔡焜霖(さい・こんりん)さんに、ご案内をたまわりました。
20歳前から10年間を無実の政治犯として緑島で過ごされた蔡焜霖さんですが、刑期を終えられたあとは1960年代に雑誌『王子』を創刊し、日本の漫画を台湾に紹介することで、台湾における漫画文化を育まれました。またその日本語力を生かし、創業以来60年のあいだ日本の電通と提携を続けて来た広告会社・国華広告(現:電通國華Dentsu One)にて活躍されました。司馬遼太郎の『台湾紀行』で「老台北」として登場する蔡焜燦(さい・こんさい)さんの実弟にあたられることでも日本では知られています。

蔡焜霖さんは今年で90歳。
政治犯として収監されたのは蔡さんが若かりし頃の10年で、それ以降の人生のほうがずっとずっと長いのです。それでも、その10年を振りかえる蔡さんの口調はまるで、昨日の出来事を語るかのよう。部屋の広さや人との距離、会話、温度、空気感、そのときにどんなことを考えたのか……。すべての思い出が古びることなく、「次世代に伝えなければ」という使命感が泉のように湧きいでて、あらゆる記憶を生き生きと保たせているようです。

事の起こりは1950年9月10日のことでした。
1947年に228事件が勃発し、1949年に蒋介石が中華民国政府を南京から台湾に移したその翌年です。1949年より始まった台湾での政治弾圧は「白色テロ」と呼ばれ、一般的には1949年より戒厳令が解除された1987年までの38年間に起こった事とされています。しかし蔡さんによれば、厳密にいえば台湾での「白色テロ」の期間は、中華民国の法律「刑法100条」が1992年に廃止されるまでの43年間を指すそうです。
「刑法100条」とは、「国体の破壊、国土および憲法の不法な変更、政府転覆を意図し、企てた実行者は7年以上の懲役:首謀者は無期懲役。その予備犯は、6か月以上5年以下の懲役に処する」というものです。「意図し、考えたり」あるいは「口にした」だけで恣意的に反乱罪に問うことができたこの法律のもと、多くの人が犠牲となりました。

その日、勤め先である台中県清水の役所で残業をしていた蔡焜霖さんのもとに、見ず知らずの人がやってきました。そして、蔡さんを探している人がいるので、一緒に警察署まで来てほしいといいます。何のことかわからないまま彰化の憲兵隊に連れていかれた蔡さんは、そこで激しい尋問をうけました。更に、突き付けられた容疑を否認した蔡さんは、今度は足の指に電流を流すという凄まじい拷問に遭います。蔡さんはそのとき初めて、憲兵隊に連れて来られた理由が、高校2年生17歳の時に「とある読書会」に参加したためと知りました。
17歳ということは太平洋戦争後の1946年ごろで、中華民国が台湾に正式に移転する1949年より前の事。読書会で読んだのは魯迅や巴金だったそうです。しかしそういった読書傾向は、日本の植民地支配の中で芽生えた民族主義や台湾人としての平等な待遇を求める社会主義思想の入り口に過ぎず、当時のエリート台湾青年にとっての「通過儀礼」のようなものであり、刑法100条にある「国家転覆を意図する」等とはかけ離れたものでした。
一時的に収監された台南で「軽くても10年の懲役」と耳にした蔡さんは、パニックに陥ります。それから本当に長い歳月、蔡さんは故郷・台中清水の土を踏むことは出来ませんでした。

麻縄で手を縛られた蔡さんは台北に連れて来られ、まずは日本時代の東本願寺(現:西門の獅子林ビル)にあった台湾省保安司令部保安處に収監されます。調査尋問を司る憲兵隊、保安司令部保安處、国防部保密局などの情報機関では、拷問は日常的に行われました。人権博物館の展示では「親指のみ縛られて吊るされ棒で打たれる」「塩を大量に食べさせて、一日水を与えない」「氷の上に座らせて身体を麻痺させながら棒で打つ」(これは映画『牯嶺街少年殺人事件』にも描かれている)といった事が、実際に体験された方の説明を元に図説されていました。

次に送られたのが、立法院やシェラトンホテルなどがある附近(青島東路)にあった「軍法處」でした。軍法處は裁判と判決を司る機構です。
「軍法處」には東所と西所があり、西所には軍事犯、東所には政治犯が留置され二階は女性用でした。一階には36間の収監部屋があり、6坪ほどの牢屋に30人以上の人がぎゅうぎゅうに押し込められていました。牢屋にはトイレ(蓋のある樽状のもの)がひとつあるだけ。新入りはトイレのそばで寝起きする決まりで、収監された日数が長くなるほど、少しましな場所へと移動することが出来ました。
一人につき与えられた空間は、ひと一人がようやく寝そべる事のできる範囲だけ。空気の流動が殆どないのでとても蒸し暑く、牢屋のまん中に吊るされた大きな麻布の位置を動かして空気の流れをつくってかろうじて部屋の温度を下げるしかありません。蔡さんによれば、実際に展示現場で示されていた牢獄より本物はもっと狭かったといいます。
蔡さんにとって最も恐ろしかったのは、夜明け前に呼ばれて出る囚人は銃殺刑と決まっていたこと。銃殺刑に決まった囚人はトラックで馬場町(今の青年公園より川沿いのあたり)に運ばれて銃殺され、引き取り手のない遺体は、六張犁山手の公墓にひっそりと埋葬されました(これは映画『超級大國民』にも描かれている)。蔡さんご自身もこの軍法處で簡単な裁判にかけられ、まったく身に覚えのない罪によって10年の実刑判決を受けます。

青島東路の軍法處からある人は華山駅からの列車で、また、ある人はトラックで運ばれ、基隆より船に載せられました。どこに行くかも告げられず、「沖に出れば手を縛られたまま海に投げ落とされるかもしれない」という不安にさいなまれながら着いたのが緑島(火焼島)でした。後で知ったのは、載せられたのはLST軍艦。戦後にアメリカより中華民国に援助されたものでした。

1951年、緑島で蔡さんの10年近い生活が始まります。緑島の島民は最初、政府の宣伝で「殺人放火の犯人よりも凶暴な悪者がやってくる」と教えられ、ずいぶん怯えていたそうです。しかし島にやってきた受刑者のなかの多くが医者や教育者、若い学生であることを知り、予想と違うことに驚きました。
結果的に、これらの囚人が緑島に当時最高レベルの医療や教育を持ち込み、今でも島民の語り草になっているといいます。緑島では、囚人らは「新生」(再教育されて新しく生まれ変わる)と呼ばれ、施設などをつくる肉体労働に狩りだされました。女性囚は番号で、男性囚は名前で呼ばれていました。
景美の人権博物館では、小さな食事用の窓が下の方に開かれ「犬のように食べた」牢獄の状況がそのまま再現されています。一日のうち、15分だけ中庭に出て「ぐるぐる歩く」などの運動が許されたそうです。それは人としての尊厳をどのように失わせるかという実験のようでもあります。これら白色テロの犠牲となったのは、いわゆる「本省人」(戦前より台湾に住んでいた台湾籍の人々)だけではありません。大まかな統計によれば、台湾籍55%に対し、45%の「外省人」(蒋介石と一緒に台湾へやってきて人々)にもその刃は向けられました(※これについては、映画『バナナ・パラダイス』に詳しい)。

しかし蔡さんの緑島での暮らしは、その後の台湾の「時代」をつくってきた多くの方々との出会いの場でもありました。
例えばコンテンポラリー・ダンスの先駆者である蔡瑞月さん(夫であった雷石榆をめぐる容疑で緑島にて懲役3年)。緑島では「康楽活動」と呼ばれる囚人によるレクリエーションが頻繁に行われていました。昼は労働で体力を消耗させ、夜も演芸活動に駆り出し、あれこれと頭を使う暇などない程に受刑者らを疲弊させるのが強制収容所管理の常套手段の一つでした。

蔡さんはその日も、昼間に山へ草刈りに出て疲れ果てていました。小さな腰掛に坐って下を向いたまま一刻もはやく部屋に返してほしいと願っていたら、急に「わぁっ」と大きな歓声が上がりました。
蔡さんが頭をあげると、そこには蔡瑞月さんの指導によるダンスでの華麗なる舞台が繰り広げられていました。そして空を仰げば満天の星――この出来事により、蔡さんは「これから強く生きていこう」と胸にしっかりと誓ったのだそうです。
また、戦前に日本留学し日本語でも作品を発表した楊逵(ようき)はじめ、その後の台湾の文化や社会に大きな影響を与えた多くの先達と緑島の経験を共にし、たくさんの事を学んだといいます。

じっさい、景美の人権博物館にも、「美麗島事件」の裁判の模様がそのまま残された部屋があります。美麗島事件は戒厳令下の1979年に起こった反体制デモに対する言論弾圧で、国際世論の圧力により初めて国内外のマスメディアを入れた軍法裁判となるなど、これ以降の台湾の民主化に大きな影響を与えました。
現在の与党・民進党を作ってきた主要メンバーも多く関わっており、壁を飾る写真をみれば、弁護士席に、現・駐日大使の謝長廷氏や元総統の陳水扁氏の姿もみえます。この人権博物館が歩んできた歴史が、現代台湾の社会政治を語るうえで切っても切り離せないことであることがよく理解できます。

台湾の歴史学者・周婉窈さんによれば、蔡焜霖さんは台湾の歴史のなかで「戦争期世代」に当たります。日本でいういわゆる「日本語世代」よりもっと細かい分け方で、日本語教育を受け太平洋戦争にもギリギリ参加した世代です。実際に蔡さんは、15歳のときに学徒兵として召集され、最初は故郷の清水で海岸防衛の任務を課され、米軍の攻撃に備えていたといいます。また、その後は台中の軍用飛行場に駐屯して高射機関砲兵の訓練を受けられました。
そこから時を経ること、45年余り。
今日からちょうど30年前の1991年9月21日、多くの無実の人々を白色テロの犠牲へと追いやった「刑法100条」撤廃を政府に要求する「100行動連盟」が成立。多数の人々の努力により、1992年、条文の最後尾に「而以強暴或脅迫著手實行者」、つまり「強暴な手段または脅迫によって着手実行した者は~」と条文が修正されたことで、それ以降、思想や言論だけで反乱罪に問われることは無くなりました。これによって「白色テロは、この日をもって終了した」のが定説といわれています。

それから民主化が進み、白色テロについて学びたいという学生を連れた大学の先生たちが緑島を訪れるようになりました。一週間ほどのフィールドワークは「緑島キャンプ」と名付けられ、蔡さんもそこで自身の経験を話す機会を得ます。毎回、学生の数は50人ほど。白色テロの中で変死した数学者・陳文成基金会のメンバーが参加したこともありました。更には、その中から「野百合学生運動」をはじめとする民主化後の台湾でおこった主だった学生運動を率いるリーダーたちもつぎつぎと生まれ、それが2014年の「ひまわり運動」へと結びついていくのです。

2014年、緑島キャンプからのご縁で講義のために花蓮の東華大学を訪れていた蔡さんは、そこで「ひまわり運動」勃発を知ります。蔡焜霖さんを始めかつての「政治犯」の子供たちが、たった今、立法院(かつての軍法處)で戦っている――それをテレビで観ていても立っても居られなくなった蔡さんは、すぐさま同じ「戦争期世代」の仲間と共にひまわり学生運動の真っただ中にある立法院に入り、運動への支持を示しました。ひまわり運動リーダー格だった魏揚も、楊逵の孫だったことが当時話題となりました。

日本時代にまでさかのぼる、蚕の吐き出したような「台湾民主」という細い糸。それが白色テロや美麗島事件など、幾星霜を経るうちに撚り合わされ、野百合やひまわりといった学生運動を描き出し、現代台湾というタペストリーが織りだされています。しかし台湾の人々の心がその途中でバラバラに解けてしまったら、いつお隣の中国に呑み込まれてもおかしくはなく、実際にそういう時代が民主化以降も何度かあり、特に馬英九政権の2008~2010年には、蔡さんの盟友の何人もが「もうだめだ」と意気消沈したまま亡くなったそうです。
雨傘革命以降、民主が急激に失われている香港について「今天的香港,明天的台灣(今日の香港、明日の台湾)」というフレーズをよく耳にするようになりましたが、むしろ「昨日の台湾、今日の香港」であり、「今日の香港、明日の台湾」とは台湾の白色テロの歴史を知らない人の言い方だと蔡さんは指摘します。

「人権」とは人に生来備わったものでも、人と人との相互間で守り合うものでもなく、先人が努力してつかみ取ったものを、たゆまない努力によって個人によって形づくられる社会のなかで守っていこうとする仕組みです。しかし、それについて深く考えるようになったのは私の場合恥ずかしながら台湾に来てからでした。

台湾の世代間で手渡されてきた「人権とはなにか」という問いかけ、経験、そしてそれを守り、また発展させていこうという努力。蔡焜霖さんに人権博物館をご案内いただいたことで、改めてこの話を広くしっかりと日本へも手渡していかねばと感じ、簡単ながらこのレポートにまとめました。
いっしょに伺った13歳の息子は、その前日に観た『返校』よりもずっとずっと心を打たれる「本物」のお話だったと、後でしみじみと言っていました。はんぶん日本人、はんぶん台湾人のティーンズになったばかりの彼と一緒に蔡さんのお話を伺えたこと、生涯忘れることのできない思い出です。
 蔡焜霖さん、今回ご案内頂きましたこと改めて御礼を申し上げます。本当に有難うございました。どうかいつまでもお元気でいらして下さいますよう、心より願ってやみません。

蔡焜霖さんは、文化を通した日台交流に尽力されたことが評価され、今年、日本政府から旭日双光章を授与されました。そして先日9月15日に、日本台湾交流協会の泉裕泰代表より蔡さんの手に勲記及び勲章が手渡されました。
また台湾への修学旅行を支援する研究者グループSNET台湾と台湾文化センターによる台湾国家人権博物館特別展も、現在東京虎ノ門の台湾文化センターおよびSNET台湾のサイト上で開催されています。台湾の人権博物館の展覧会が海外で行われるのは、今回が初めてのことだそうです。

■SNET台湾――台湾国家人権博物館特別展
https://snet-taiwan.jp/twhr/#history

■国家人権博物館YouTubeチャンネルでの蔡焜霖氏インタビュー
https://youtu.be/fpbXEX5KtHc

■蔡焜霖さんの自伝的漫画『來自清水的孩子Son of Formosa』は2022年に岩波書店より日本語での翻訳出版が予定されているそうです。
https://www.books.com.tw/products/0010857

敬悼 蔡焜霖前輩 (1930-2023) #一路好走
白色恐怖受難者,也是《王子》雜誌創辦人蔡焜霖前輩於昨日辭世,我們已經開始想念他。🥹
為了籌備國家漫畫博物館,臺史博漫博組曾在2022年前往訪談過蔡焜霖前輩。當時登門拜訪,一進門就可以看到旭日勳章跟金漫獎特別貢獻獎的獎狀,蔡前輩也娓娓道來他與漫畫的難解之緣。
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前輩先從小時候看的漫畫聊起,像是《冒險彈吉》、《黑狗兵》等連載漫畫。從小就愛閱讀的他,在戰後也非常關心日本的出版業。前輩幽幽地說,在漫畫之神手塚治虫畫出原子小金剛的那一年,他正坐在前往綠島的船上。 #這一去就是十年
但前輩接著又笑著說,他小時候讀十年日本書,之後去綠島學十年中文,所以回來臺灣本島之後非常適合當翻譯,難怪接著就跟漫畫產業分不開關係了。👍
訪談結束後,前輩還介紹了許多當時在文昌出版社以及王子雜誌社一起打拼的夥伴們給同仁。因為結識了這些當時為臺灣漫畫產業默默付出的人們,讓我們在典藏及研究臺灣60年代漫畫時,有了更豐富的材料及視角。💯
也是因為前輩無私的分享,今年10月6日在日本東京明治大學米澤嘉博紀念圖書館暨現代漫畫圖書館的「 #臺灣漫畫與租書店的奇幻旅程」國際展中,我們將展出前輩與夥伴們如何面對臺灣特有的《編印連環圖畫輔導辦法》,期待讓日本的觀眾看到臺灣漫畫史中獨一無二的反抗與溫情。-
蔡焜霖前輩的人生雖曾困頓,但他仍溫暖待人,始終懷抱著理想使命。我們知道,他的精神將長存這塊島嶼。


蔡焜霖前輩獲日本政府頒發「雙光旭日章」,2021(9/15)日舉行授勳儀式!
白色恐怖政治受難者、同時也是人權館推動人權教育的重要夥伴蔡焜霖前輩,以「翻譯家」身份,獲頒「勳五等雙光旭日章」,授勳原因為:「台湾における日本文化の紹介及び相互理解の促進に寄与」。
「旭日章」為日本著名的高等勳章之一,自1875年制定起,由日本政府選拔「對國家公共有功勞者中,有引人矚目的顯著功績內容」的功勳者,並於每年春秋授與勳章,分勳一等至八等,過去也有多位促進日台友好關係的臺灣人受勳,如臺灣知名企業家辜濂松、張榮發、許文龍、作家林文月、知名學者曹永和、宋文薰等。
讓我們一同來恭喜蔡焜霖前輩!






【聯合國應重視台灣夥伴價值─敬 自由!讓歷史的黑暗成為現今自由的基礎】
『我們有全世界最長最長的戒嚴時期。如今,我們過去所經歷的遺憾,能夠成為未來人們活得更自由的一小部分基礎,這是我們這個國家的勇氣』
─敬 自由 / 蔡焜霖先生……
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可能是 1 人、眼鏡和顯示的文字是「 TAIWAN 敬自由 To Freedom 」的圖像
敬 自由 / 蔡焜霖
71年前,1950年的9月10日,蔡焜霖先生被逮捕了。
理由是高中二年級時參加過讀書會,而罪名是「1949年5月參加叛亂組織並曾為叛徒散發傳單」。
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整整10年後,1960年的9月10日,他才回歸自由身。
此後,他人生的任務就是讓世人知道,當年那些年輕人是清白的。
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71年後,外交部在今年聯合國推案影片《敬 自由》中,我們留下了蔡焜霖前輩的影像與口白
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『所有的歷史都有黑暗
但不是所有的國家都願意面對
要繼續前進
我們首先必須正確地認識自己
我們有全世界最長最長的戒嚴時期
如今,我們過去所經歷的遺憾
能夠成為未來人們活得更自由的一小部分基礎
這是我們這個國家的勇氣』
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如果聯合國的重要任務之一是要讓國家尊重人民的權利,台灣的夥伴價值值得聯合國重視。
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在此感謝
蔡焜霖先生
國家人權博物館-白色恐怖景美紀念園區
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To Freedom / Tshua Khun Lim
Mr. Tshua Khun Lim was arrested on September 10, 1950.
The reason for his arrest was the “crime” of attending a study group in his second year of senior high school. Accused of attending an insurgent organization in May of 1949 and having once distributed leaflets inciting rebellion, Tshua was imprisoned for ten years before regaining his freedom on September 10, 1960.
Since his release, his mission in life has been to clear the names of all those that were falsely imprisoned at that time.
71 years later, he has been featured in MOFA's UNGA short film "To Freedom" and speaks his own truth saying:
"All histories have their darkness, but not every country is willing to face up to it. To move forward we must first recognize our true selves. Ours was the longest period of martial law in the world. Today, all those sorrows we experienced in the past are built into a modest foundation for more freedoms in the future. This is where our country’s courage lies."
If the UN states part of its mission as encouraging countries around the world to respect the rights of their people, Taiwan's vision of global partnership can serve as a valuable reference.







Yi-jin Shiao 分享了壹週刊壹號人物相片


壹週刊壹號人物


二二八,來複習一下王子的故事。
他是二二八受難者,是王子月刊創辦人,是紅葉少棒支助者,儂儂雜誌董事長。
八十四歲的他攤開記事本,周一至周三赴濟州島人權會議,周四人權園區開三個會,他的滿滿行程表。三一八學運,他衝進立法院鼓勵年輕孩子,「我這老灰啊已經沒力了,但若有人敢打你們,我做鬼都會抓他們。」他滔滔不絕地說著,像為冤死獄友申冤,又像是為王子的失敗、為友人們都已死去,自己仍獨活而贖罪。
他是義人。


王子
蔡焜霖

文字 李桐豪
攝影 賴智洋

畫面裡,老人回憶關押台北軍法處往事。「透早四五點,外頭鐵門吱一聲打開,睡著的人都醒來,大家都在等點名。被叫到的人面色凝重,穿衣服,穿雪白襯衫,和我們握手,我們開始在那裏唱學到的一首歌,安魂曲或者安息歌。」他聲音顫抖,說著,唱起歌來,「安息吧死難的同志,別再為祖國擔憂,你流的血照亮著路。指引著我們向前走。照亮著路,照亮……」老人喃喃重複歌詞,然後說,他唱不完。

清水優渥童年

畫面外,老人氣呼呼的。老人名叫蔡焜霖,今年八十四歲,因中學參加讀書會,被羅織「參加叛亂組織」罪名,綠島關了十年。紀錄片導演江國樑以其半生經歷拍《白色王子》一片,日前在公視播放。蔡焜霖對片子著墨太多過往苦難很有意見,「你看完為我們的過去而哭,我很謝謝,但無助嘛,我很不鼓勵大家去看那個,如果看了只為讓你傷心,看那個做什麼?」我們約在他家附近咖啡館採訪。他頭髮梳得一絲不苟,襯衫燙得有稜有角,鋼筆插胸前口袋,像那種在旅行團中自費搭商務艙的退休小學校長或董事長。

那紳士氣質其來有自:一九九九年,他自國華廣告副董事長一職退下,目前在景美人權園區當任義工,他曾是國泰美術館館長、《儂儂》雜誌創刊人。他一九六六年創辦的《王子》半月刊是台灣最重要的兒童刊物,初期銷量五萬冊,僅次《讀者文摘》。《王子》是二手書市夢幻逸品,當年售價一本十元新台幣的雜誌,網路一千元起標。他說幼時讀童話,王子公主最後都過著幸福快樂的日子,雜誌取名王子,像美好的祝福。小時候愛讀童話,童年也過得如王子一樣優渥。他一九三〇年出生台中清水,家中經營清水鎮規模最大百貨店。讀幼稚園時,由女傭揹著去上學。他熱愛文藝,中學考入台中一中,參加讀書會,大量閱讀巴金、魯迅等左派作家。

光復之後百業凋敝,百貨店生意慘淡,他高中畢業放棄升學,入清水鎮公所一邊工作,一邊準備教師資格檢定。一日在辦公室,憲兵闖進將他架到警局,中學讀書會惹了禍,輾轉被移送台北軍法處,腳拇指被用電線綁起電擊,屈打成招,以叛亂罪罪名移送綠島新生訓導處。新生訓導處是座開放式集中營,他算第一期「學長」,同期獄友有作家楊逵、舞蹈家蔡瑞月等,他們上山砍材、海邊挖石頭,自掘監牢自我囚禁。

綠島自掘墳墓

他用國語戰戰兢兢回憶往事,說解嚴前對兒女提及這十年空白,他都謊稱自己去日本留學,我們改用台語問他暝夢的時陣講台語抑是日語?「在家講台語,在火燒島講日語,台灣因仔都講日語,抓耙仔聽無啦。」用母語說心事,原本平穩的口氣於是有了起伏和愛憎,提及綠島難友蔡炳紅楊俊隆冤死獄中,他咬牙切齒。一九五三年,獄方迫政治犯在身上刺「反共抗俄」遭反彈,獄方挾怨報復,於當年七月以「散步唱匪歌」、「『匪帮國慶日』加菜」等理由前後槍決了十四人,「他們天真,陽光,犯的罪沒有一條可殺生!」

恨嗎?他淡然說:「毋哉要怨恨啥?顛倒覺得自己卡幸運。」說起他人的苦難慷慨激昂如法庭電影,但講起自已的際遇卻正面陽光像勵志片。他說入獄時四十幾公斤,每天割草勞動,離開後人都變壯了。把集中營當軍營,坐牢當當兵,每天唱歌讀書。說來諷刺,他因被控叛亂罪被抓去關,但入獄後才接觸毛澤東。獄友們弄來了毛澤東《論人民民主專政》,一冊書拆成好幾本,藏在菜園輪流閱讀。一晚他們被迫在司令台下聽蔣總統嘉言錄,他低頭發呆,忽然眾人鼓譟,他抬起頭,一名女子跳上司令台,那是舞蹈家蔡瑞月,星空下翩翩起舞如天仙。他那畫面震撼,渾身像通電,久久不能自己。苦難中,藝術和友誼是他僅有的支撐。

他說有賴「賢輩」的照顧,自己才度過難關。別人照顧他,他也照顧別人,紀錄片難友黃石貴語帶哽噎地說:「蔡焜霖睡我旁邊,大家跟兄弟一樣好。有一天我偕伊講,你昨晚怎麼這麼難睡,怎麼把腳放在我身上。隔天,伊就把腳綁在柱子上。」患難裡的真情是他《王子》偷渡許多難友的緣故。一九六〇年,他離開綠島,考上台北師專,高興興去註冊,校方稱「政治犯不得作育英才」拒絕他的入學。到《金融徵信新聞》工作數月,他被以相似理由在過年前支遣。權威國家的監控無孔不入,前腳剛到新公司,警察後腳就跟來詔告天下,出獄對他而言,無非是從一個牢籠到另外一個牢籠。

台北創辦王子

國家不讓他當老師,索性自己辦兒童刊物。在岳父投資下,創辦《王子》。當年關在綠島四維山下,他掛名蔡維嶽做發行,一來避難,二來惕勵自己要勇敢。他思想靈活,改裝福斯麵包車當巡迴圖書館,徵選兒童合唱團,辦寫生比賽,銷量衝到五萬冊,各地中盤商捧著現金在裝訂廠門口漏夜排隊等批書,風光得很。同時,綠島難友陸續釋放回來,找不到工作的,他延攬到雜誌社工作,「在綠島讀太多毛澤東,知道做人要有平等思想,王子是大家共同投資,大家一起打拼。」當時,搭公車一塊錢新台幣,他雜誌社養活八十到一百人,編輯平均月薪一千元。

全台最受歡迎的兒童雜誌出自一群政治犯之手,此事對當權者是極大的羞辱。警察三天兩頭到出版社查戶口,半夜登門臨檢。某一期內容改寫《今古奇觀》中灌園叟晚逢仙女的故事,內容描述老花農因阻止惡霸毀花占園而蒙冤入獄,得到園中花仙相救。原文有「只求處士每歲元旦作一朱幡,上圖日月五星之文,立於苑東,吾輩則安然無恙」,改寫者不疑有他,「日月五星紅旗」全文照翻,被勒令停刊。在多方奔走下,才幸免於難。

屏東密謀自殺

章回小說中老人有仙女搭救,他卻沒有。一九六九年九月中秋兩次颱風導致水災,器材紙張全泡湯,雜誌停刊兩期,他為此負債二百四十萬。「欠大人莫法度,小孩子不能騙」,他把雜誌社經營權轉給他人,把債務留給自己。十年冤獄沒有打倒他,二百四十萬的債務打垮了他。他帶著妻子和剛出生的男孩,自台北搭慢車到屏東,準備舉家跳太平洋自殺。因不忍幼子無辜,擬將小孩託付給嫁到潮州的二姊,二姊看出異狀,好言相勸才把他勸回台北。

其後,他在親友引薦下國泰關係企業,輾轉擔任蔡辰男董事長秘書、籌設國泰美術館,創《儂儂》雜誌,後半生順遂風光像是被他按了快轉鍵,寥寥數語帶過,他耿耿於懷的仍然是王子的失敗和對人的虧欠。他自責當年擴充太快,導致失敗。「我被抓,沒有對不起別人,至多對不起阮老爸,將伊害害死。王子倒了,卻對不起很多人,有時候想起來,在外面走路頭低低,有勇無某,憨慢啦!」我寬慰他,走訪景美人權園區,與他共事的義工都說他為人仗義,他說:「那你是估計太高了。毋哉啦,毋哉啦。」語畢,又自書包取出冤死好友蔡炳紅判決書,把話題繞回受難的獄友,同樣的話題說一百遍一千遍,也許就可以頂住遺忘。

攤開記事本,周一至周三赴濟州島人權會議,周四人權園區開三個會,他的滿滿行程表。三一八學運,他衝進立法院鼓勵年輕孩子,「我這老灰啊已經沒力了,但若有人敢打你們,我做鬼都會抓他們。」他滔滔不絕地說著,像為冤死獄友申冤,又像是為王子的失敗、為友人們都已死去,自己仍獨活而贖罪。「他當義工作導覽,有時勸他休息,他說他沒有時間了。」人權園區導覽辦公室的賴元裕說。幾日後,我們隨他出席Rell Bull九月綠島籃球比賽記者會,他在主辦單位擺布下,又是拿籃球擺擺pose拍照,又上台致詞。台上,他大聲疾呼綠島並非只有大哥文化,台下,籃球選手們和年輕記者低頭滑著手機。但他滔滔不絕地說著,彷彿英勇的王子騎白馬向前衝,雖千萬人吾往矣,但敵人是誰,顯然沒什麼人在乎了。

蔡坤霖 年表
1930年 12月18日出生於台中清水
1946年 保送省立台中一中,酷愛文藝,參加讀書會
1950年 高中放棄升學入清水鎮公所就職,被「參加叛亂組織,並曾為叛徒散發傳單」的罪名判刑十年,移送綠島。
1960年 出獄,先後就職金融徵信新聞報、寶石出版社、東方出版社、文昌出版社和國華廣告。
1966年 創辦王子半月刊。
1969年 王子易主 入國泰關係企業
1987年 重返國華廣告,1999年於副董事長任內退休。



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Dear HC,

   中央書局的中央俱樂部,和美人陳滿盈就是賴和的好朋友兼「櫟社」(林莊生《懷樹又懷人》介紹過)的主要社員,他比較為人所知的名號是「陳虛谷」,陳滿盈是他的本名。


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Ken Su


【尋找中央書局股東】
 文化本來就應該是由下而上的社會力整體表現,在約九十年前的1925年11月10日,一群中部地區的文化協會成員:張濬哲(大雅)、陳滿盈(和美)、賴火烈(員林)、林獻堂(霧峰)、林載釗(潭子)、林資彬(霧峰)、林糊(福興)、吳沛然(名間)、洪元煌(草屯)、楊濱嶽(梧棲)、陳炘(大甲)、杜清(大甲)、蔡年享(清水)、楊天斌(清水)、許金來(鹿港)、林少聰(霧峰)、林月汀(竹山)、林垂拱(太平)、楊路漢(梧棲)、莊垂勝(鹿港),創立了台灣最早的文化沙龍(中央俱樂部)而成為日後中央書局的前身,也是在這些民間力量的支持下,啟動了當時台灣文化的自覺運動;而在1998年中央書局結束營業後,中央書局的股東也還曾高達三百多人,台中舊市區新一波的文藝復興運動,需要更多民間力量的參與!

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