司馬遼太郎/ 吉屋信子 對談《日本史探訪 6 源 義経 》,角川文庫,1982,145~ 189
《義經》 (司馬遼太郎1968 遠流,1996 )
源 義経 | |
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時代 | 平安時代- 鎌倉時代 |
生誕 | 平治元年(1159年)[注釈 2] |
死没 | 文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31 |
改名 | 牛若→遮那王(幼名)→義經・義行・義顕 |
別名 | 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名) |
戒名 | 捐館通山源公大居士[1] |
墓所 | 宮城県栗原市判官森(伝胴塚) 神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚) |
官位 | 従五位下・左衛門少尉・検非違使少尉・伊予守 |
氏族 | 清和源氏為義流(河内源氏) |
父母 | 父:源義朝 母:常盤御前 養父:一条長成 |
兄弟 | 義平・朝長・頼朝・義門・希義・範頼・阿野全成・義円・義経、坊門姫・女子・廊御方?・一条能成・女子(一条長成の娘) |
妻 | 正室:河越重頼の娘(郷御前) 妾:静御前・平時忠の娘(蕨姫) |
子 | 男児[2]・女児[3]・男児(千歳丸[4])[3]・ 女子(源有綱室?)[5] |
花押 |
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を
兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。
その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき[注釈 3])という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ[6]。
生涯[編集]
義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』[注釈 4]や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。
誕生[編集]
清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる[注釈 5]。
後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時[7]に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を
やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い[8]、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い[注釈 7]。
『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
治承・寿永の乱[編集]
義經 | 小說 | 司馬遼太郎 |
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